アブドラ・アブドラ
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アフガニスタン政治家アブドラ・アブドラ??????? ???????

生年月日 (1960-09-05) 1960年9月5日(63歳)
出生地 アフガニスタン王国カーブル
出身校カーブル医科大学
前職医師
所属政党アフガニスタン国民連合
アフガニスタン・イスラム共和国
国家和解高等評議会議長
在任期間2020年5月17日 - 2021年8月15日
大統領アシュラフ・ガニー
アフガニスタン・イスラム共和国
行政長官
在任期間2014年9月29日 - 2020年3月9日
大統領アシュラフ・ガニー
アフガニスタン・イスラム共和国
外務大臣
内閣ハーミド・カルザイ
在任期間2001年10月2日 - 2006年4月20日
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アブドラ・アブドラ(パシュトー語: ??????? ???????‎、英語: Abdullah Abdullah、1960年9月5日 - )は、アフガニスタンの政治家。民主政府の国家和解高等評議会議長であった。行政長官(首相に相当)、外相を歴任。妻帯、1男3女を有する。パシュトゥー語英語アラビア語を話す。アブドゥッラー・アブドゥッラーとも表記される。
来歴
医師

カーブル出身。アブドラによると、両親はカーブル出身で、父はパシュトゥーン人、母はタジク人だった[1]。父は首相府の土地監査部に勤務していたため、幼少の頃は父に連れられカーブル・カンダハールパンジシールを転々とした。

1976年にカーブルのギムナジウム「ナディラ」を卒業し、1977年カーブル医科大学に入学し眼科を専攻。1983年に大学を卒業し博士号を取得する[2]1984年から1986年まで、ヌール眼科専門病院とカーブル病院で医師として働く。また、1984年末にムジャーヒディーンに参加した。

1985年9月にはパンジシール峡谷の主任医師となり、アフマド・シャー・マスードの支配地の保健局長を務めた[3]

1986年のムハンマド・ナジーブッラーによる共産政権樹立による混乱に伴いアフガニスタンを離れ、パキスタンペシャーワルの病院で医師として働いた。
政治家ジョン・ケリーと会談するアブドラ、ガニー(2014年8月8日)

1992年のナジーブッラー政権崩壊後に、ブルハーヌッディーン・ラッバーニー大統領の報道官兼外務次官に就任した[3]。1990年代中盤からは、北部同盟の外務大臣を務めた。

2001年12月、ボンで開かれたタジク人の会議においてハーミド・カルザイ暫定政権の外務大臣として承認され、2004年に正式な政府が発足した際に留任し、2006年まで務めた[4]。カルザイ政権が進めるターリバーンとの和解や武装放棄した一部のターリバーンの政治参加については一貫して反対しており、「対話ではターリバーンを再び勢いづかせるだけだ」と述べている。

2006年6月にマスード財団の事務局長に就任。医療・教育・農業などの分野で国内の人道支援を行った。

2009年1月、アメリカ合衆国を訪問した際、「バラク・オバマは、カルザイの4人の後継者を面接した。彼はその1人だ」と評された。野党・アフガニスタン国民戦線から大統領選に出馬。8月20日の投票では30%を得票し、カルザイ(49.6%得票)の有力な対抗馬となった。長期間の紛争の末、投票7日前の11月1日に立候補を取り下げた。大統領選後、アブドラはカルザイに対抗するための野党連合・アフガニスタン国民連合(英語版)を結成し、2010年9月18日のアフガニスタン国民議会選挙では249議席中90議席を獲得し野党第一党に躍進した[5][6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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