アブドゥル・ガニ・バラダル
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

2010年2月にパキスタン軍情報統合局(ISI)CIAの合同チームによって逮捕されたが[5]2018年10月24日アメリカ合衆国の要請により釈放された[6][7]。2021年にターリバーンが復権したことによりアフガニスタンに帰国した[8]

2021年9月15日、Time 誌はバラダルを「2021年の最も影響力のあった100人(リーダー部門)」に選出した[9]
表記

「バラダル」は「バラダール」とも表記される。日本の報道では「バラダル師」と表記することが多い。研究機関や、一部メディアは「バラーダル」と表記することがある[10][11]
経歴

バラダルは1968年、アフガニスタンのウルーズガーン州デ・ラーウド郡ウィートマック村に生まれた[12]ドゥッラーニー部族連合ポーパルザイ部族のパシュトゥーン人である[13]1980年代カンダハールで起きたソ連・アフガン戦争に参戦しアフガン・ムジャヒディーンとして主にパンジャウイ地区で、ソ連が支援するアフガン政府軍と戦った[14]。その後、カンダハール州マイワンドで元司令官のムハンマド・オマルとともにイスラム神学校マドラサを運営した。欧米メディアによると、オマルとバラダルは2人姉妹との結婚による義兄弟である可能性がある。[15]1994年には、オマルがアフガニスタン南部でターリバーンを創設するのに協力した。[16]

ターリバーン統治時代(1996年?2001年)、バラダルは様々なポストに就任しており、ヘラート州ニームルーズ州の知事[17][18]、および/またはアフガニスタン西部の軍団司令官であったと伝えられている[15]米国務省の未分類文書では、彼は元陸軍参謀副長および中央陸軍軍団(カーブル)の司令官とされている[19]が、インターポールは彼がターリバーンの国防副大臣であったと報告している[12]
アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)詳細は「アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)」を参照

2001年9月11日同時多発テロの後、アメリカはアフガニスタンに侵攻し、アフガニスタン内部の協力を得てターリバーンを退陣させた。バラダルはアメリカが支援する北部同盟と戦った。ニューズウィーク誌によれば、ターリバーンの防衛力が崩壊しつつあった2001年11月に「オートバイに飛び乗って、旧友(オマル)を山の中の安全な場所まで送った」という。[15]ある話によれば、米国と連携したアフガニスタン軍が、同月にバラダルと他のターリバーン幹部を実際に捕らえたが、パキスタンの諜報機関が解放させたという[20]。また、オランダ人記者のベット・ダムは、反ターリバーン勢力を作るためにアフガニスタンに入国したハーミド・カルザイの命を、バラダルが救ったという話を紹介している[21]

2001年12月のボン合意に基づいてアフガニスタン新政府が組織され、ハーミド・カルザイが暫定指導者、後にアフガニスタン大統領に就任し、バラダルは国際部隊や新政府の軍と戦うこととなった。2007年ヘルマンド州で殺害されたバラダルのライバル、ムッラー・ダードゥラーを含め、最初の侵攻から数年で多くの同僚のターリバーン幹部が殺された。バラダルは、最終的に指導者評議会、クエッタ・シューラを率いてターリバーンの事実上のリーダーとなり、隣国パキスタンから反乱を指揮した。気質的には「昔ながらのパシュトゥーンの部族長」、合意形成者として行動していると言われている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:57 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef