アブドゥル・ガニ・バラダル
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また、オランダ人記者のベット・ダムは、反ターリバーン勢力を作るためにアフガニスタンに入国したハーミド・カルザイの命を、バラダルが救ったという話を紹介している[21]

2001年12月のボン合意に基づいてアフガニスタン新政府が組織され、ハーミド・カルザイが暫定指導者、後にアフガニスタン大統領に就任し、バラダルは国際部隊や新政府の軍と戦うこととなった。2007年ヘルマンド州で殺害されたバラダルのライバル、ムッラー・ダードゥラーを含め、最初の侵攻から数年で多くの同僚のターリバーン幹部が殺された。バラダルは、最終的に指導者評議会、クエッタ・シューラを率いてターリバーンの事実上のリーダーとなり、隣国パキスタンから反乱を指揮した。気質的には「昔ながらのパシュトゥーンの部族長」、合意形成者として行動していると言われている。[15]

軍事活動と並行して、バラダルは2004年2009年に和平交渉の開始を試みていたと伝えられており、[15]和平合意の交渉相手として重要人物と見られている[22][23]
2010年2月の逮捕

2010年2月8日朝、バラダルはパキスタン南部カラチ近郊で襲撃を受け逮捕された[5][24][25][26][27]。米政府関係者は、この逮捕がターリバーンとの戦闘における「ターニングポイント」になると主張した[25]。パキスタンが逮捕を確認したのは1週間以上経ってからであり[28]、パキスタン当局のレフマーン・マリク内相は米パ共同作戦であることを否定した[29]。他の情報筋は、この逮捕は幸運なアクシデントであり、米国から提供された情報に基づいた襲撃で他の人物と一緒に逮捕されたと示唆している[30]。新聞「ドーン」のほか、パキスタンの報道機関でこの話は当初ほとんど無視された[31]

一部識者はバラダルの逮捕でパキスタンの立場が大きく変わったと見たが[32]、パキスタンが交渉の席につくためにターリバーンとカルザイ政権との交渉をやめさせようとバラダルを逮捕したと主張する識者もいた[33]。ターリバーンとカルザイ政府が合意した場合、パキスタンからアフガニスタンへの影響力を奪う可能性があるからである[34]

別の見解では、パキスタンのアシュファーク・パルヴェーズ・カヤーニー将軍が、一連のターリバーン幹部逮捕を利用して、11月に予定されていた自身の退任時期を延長しようと目論んでいたとされている。アメリカの政策立案者の間で自身の地位を高め、パキスタン政府に米国から退任を引き止めるよう圧力がかかるという論理である。[35]
余波

アフガニスタン政府はバラダルと秘密交渉を行っていたとされており、バラダルの逮捕はカルザイ大統領を激怒させたと言われている[36]。パキスタンは正式に要請されればバラダルをアフガニスタンに引き渡すと繰り返し主張し[37]、引き渡しが進行中だったが[38]2012年11月に予定されていたパキスタンによるターリバーン幹部釈放のリストからバラダルは明確に除外された[39]

バラダルの逮捕後、ムッラー・アブドゥル・カユム・ザキールがターリバーンの軍事指導者となった。2011年11月23日、バラダルを除く9人のターリバーン指導者が釈放された。[40]
釈放米国の代表ザルメイ・ハリルザド(左)とバラダル(右)は、2020年2月29日にカタールのドーハでアフガニスタン和平協定に署名

2018年10月25日、ターリバーンはパキスタンがムッラー・バラダルを釈放したことを確認した[41]。バラダルはその後、カタールドーハにあるターリバーン外交事務所の責任者に任命された[42]ワシントン特使のザルメイ・ハリルザドは、バラダルは米国の要請で釈放されたと主張した[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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