アブドゥルムウミン
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1148年にモロッコ全土の制圧を完了、モロッコ征服後も各地で反乱が頻発したが、その度にムワッヒド軍は厳しい弾圧を行った[18]
中央マグリブ遠征

イベリア半島ではカスティーリャ王国がムワッヒド派とムラービト朝の争いに乗じてイスラム教徒の領地を攻撃しており、イベリアのイスラム教徒はアブドゥルムウミンに助けを求めた[19]。アブドゥルムウミンはトレムセン攻略後からイベリア半島に数回派兵を行い[20]、キリスト教国とムラービト朝の領主の両方を撃破した[19]1148年には、ムラービト朝のバレンシア総督イブン・ガーニヤからハエンコルドバを割譲される[21]。しかし、アブドゥルムウミンはアフリカ方面への進出を重視し、この時点ではイベリア半島の情勢に本格的に干渉する意思は無かった[22][23]

モロッコを征服したアブドゥルムウミンは、アルジェリアからチュニジアにかけての中央マグリブへの進出を試みた。中央マグリブにはサンハージャ族の国家であるハンマード朝ズィール朝が存在し、海岸部ではノルマン人オートヴィル朝シチリア王国が基地を築いていた[24]1152年にアブドゥルムウミンは中央マグリブ遠征を開始し、アルジェベジャイアを占領した。ハンマード朝の旧都カルアの攻略には息子のアブドゥッラーを向かわせ、ハンマード朝の君主ヤフヤーが逃亡したコンスタンティーヌを制圧した[24]。ヤフヤーの追撃の過程で、アブー・カサバが率いるザルダウィーウ族の奇襲からの防衛に成功した。

中央マグリブに居住するアラブ遊牧民はムワッヒド軍の勝利に恐れを抱き[25][26]、アラブ遊牧民の軍がベジャイアの攻撃に向かうが、ムワッヒド軍は彼らを撃退する。1153年にセティーフ平原の戦いでムワッヒド軍はアラブ遊牧民を破り、アブドゥルムウミンは彼らに寛大さを示した[26]。そして、アラブ遊牧民を自軍に加え、遠征の先鋒として使役した[25]

アブドゥルムウミンはコンスタンティーヌから先に進まずモロッコに戻り、イベリア半島の情勢を注視した[26]。ムワッヒド軍は1153年にマラガ1154年グラナダを攻略し、1157年にはアルメリアを征服する[27]。これ以降およそ半世紀にかけて、ウベダバエサからデスペニャペーロス(英語版)を経てトレドに至るルート上でムワッヒド軍とキリスト教軍の戦闘が展開される[28]
イフリキーヤ遠征

1156年(1157年)、アブドゥルムウミンはサレで長子ムハンマドをカリフの後継者に指名し、他の息子にサイイドの称号を与えて主要都市の総督に任命した[29]。また、マスムーダ族の有力者たちに地位の世襲を認めさせるため、彼らに高い地位を与えた[12]。この世襲の宣言に対して、モロッコ南東部では反乱が起きた[29]

1156年にアブドゥルムウミンの権力が確立され、再度の東方遠征の準備が進められる[17]。ズィール朝のイブン・アリーはアブドゥルムウミンに東方遠征を勧め、イフリキーヤ(チュニジア)のイスラム教徒はノルマン人の攻撃からの助けを求めていた[30]1159年春にアブドゥルムウミンはサレを出発して進軍し、同時に艦隊も出発した[31]。シチリア王国がヨーロッパで神聖ローマ帝国と争っていたために戦況はムワッヒド軍にとって有利なものとなり[25]、出発の6か月後にチュニスを占領した[31]。ノルマン人の支配下に置かれていたマフディーヤを解放し、スファックストリポリが占領下に入る。イフリキーヤの小勢力と沿岸部のノルマン人は排除され[31]、エジプトを除く北アフリカがムワッヒド朝の支配下に入った[25]

イフリキーヤ遠征の後、アブドゥルムウミンはイベリア半島に目を転じた[22]


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