アブドゥッロ・ラヒンバエフ
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1922年12月30日にはソビエト連邦の結成に関する条約(ロシア語版)への署名者の一人となった[7]
中央アジア国境策定交渉

1923年7月23日から11月まではブハラ共産党(イタリア語版)中央委責任書記、同年から翌1924年まではトルキスタン共産党中央委第二書記[7]、同年4月からはロシア共産党中央委の中央アジア国境策定(ロシア語版)担当局内部で、ウズベク小委員会議長を務めた[1]

この中央アジア国境策定交渉の際、ブハラ代表のファイズッラ・ホジャエフとともにラヒンバエフが推した「民族別共和国案」と、スルタンベク・ホジャノフ(ロシア語版)らカザフ小委員会が推した「中央アジア連邦案」が対立する事態に陥った[8]。「連邦案」は中央アジアを広く遊牧するカザフ人にとって有利なものであったが、定住民族による国家の安定を重視したモスクワの介入により、ウズベク小委員会による「民族別共和国案」が勝利を収めることとなった[8]1927年のウズベク社会主義ソビエト共和国(うち黄色い部分がタジク自治社会主義ソビエト共和国)

この決定により、ウズベク人の側は中央アジア南部の民族定住地域を広く「ウズベク社会主義ソビエト共和国」とすることができた一方、未だナショナリズムが未発達なタジク人は交渉に有能な代表を送ることすらできず、彼らが手にした「タジク自治社会主義ソビエト共和国」は、タジク人定住域の極一部に過ぎなかった[9]。加えてこの「タジク自治共和国」はウズベク共和国に従属する痩せた山岳地帯に過ぎなかったため、その後のタジク・ナショナリズムは反ウズベク感情に基づくしこりを残すことになった[9]
後半生

その後、1922年5月から1926年9月までは赤軍トルキスタン戦線(ロシア語版)革命軍事会議メンバー、1924年10月30日から1925年2月6日まではウズベキスタン共産党中央委臨時組織局書記、1924年11月18日から1925年2月13日まではウズベク共和国革命委員、1924年から1926年まではロシア共産党・全連邦共産党中央委中央アジア局員(ロシア語版)を歴任したが[1]、1926年10月から1928年6月までは中央アジアでのすべての役職を辞し、マルクス・レーニン主義を学ぶためモスクワへと派遣された[7]

同年1月から翌1929年5月までもモスクワで連邦中央民族出版社(ロシア語版)社長、翌6月から1933年12月まではロシア共和国教育人民委員部(ロシア語版)ソビエト少数民族委議長を務め、同月28日から1937年9月まではタジク社会主義ソビエト共和国人民委員会議議長に、同時に1934年1月4日から1937年9月7日まではヌスラトゥッロ・マクスム(ロシア語版)の後任として[7]連邦中央執行委議長の座にも就いていた[1]。また1935年12月20日には、農業分野での卓越したノルマ超過を賞して1370号目のレーニン勲章も授与されている[1]
粛清ホジェンドに建つラヒンバエフ像

連邦党大会にも第10回(ロシア語版)から第14回(ロシア語版)までと第17回(ロシア語版)に出席し、連邦中央執行委大会にも第5回から第7回まで出席した[10]。しかし、連邦中央執行委議長に在職中の1937年9月7日に汎トゥラン主義[5]・反革命テロ組織に参加した容疑で[7]スタリナバードで逮捕され、モスクワのレフォルトヴォ刑務所(英語版)へ収監された[4]。そして長い拷問の末[5]、翌1938年5月7日に連邦最高裁軍事参議会(ロシア語版)はラヒンバエフに対しロシア共和国刑法(ロシア語版)第58条(ロシア語版)第1項のa、第8項および第11項に基づき死刑判決を言い渡した[2]。ラヒンバエフは同日ブトヴォ射撃場(英語版)にて銃殺されたが[4]1956年10月20日にフルシチョフにより、名誉回復(ロシア語版)がなされた[2]
脚注^ a b c d e f g h i j k “ ⇒Рахимбаев Абдулло”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. knowbysight.info. 2020年5月14日閲覧。
^ a b c d “ ⇒Рахимбаев Абдулла Рахимбаевич [__.06.1896-07.05.1938 {род.6.1896г.}]”. Библиотека - "Люди и книги". AZ-libr.ру. 2020年5月14日閲覧。
^ “ ⇒Высшие органы государственной власти Таджикской ССР”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. knowbysight.info. 2020年5月14日閲覧。
^ a b c ?амдампур Ш. (2018年12月11日). “Хиёнати Абдулло Ра?имбоев”. Pressa.tj. https://pressa.tj/tajikistan/hiyonati-abdullo-ra-imboev/ 2020年5月14日閲覧。 
^ a b c d e f g h i ?amil, ?li (2013年6月27日). “Abdullo Raximboyev”. ?li ?amil. 2020年5月14日閲覧。


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