アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ
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2010年11月13日、椎間板ヘルニアを患っていることが明らかになり[2]、間もない同年11月17日、37年以上務めていた国家警備隊司令官の座を息子のムタイブ・ビン・アブドゥッラー王子に譲った[3]

2015年1月23日崩御。5人の妻を持ち、7人の王子と15人の王女がいた。王位は王弟のサルマーン・ビン・アブドゥルアズィーズ王太子が継承。
内政と外交姿勢

アブドゥッラーは映画館の解禁や女性の登用などサウジアラビアの近代化に努力しており、サウジアラビア初の高層ビルであるアブラージュ・アル・ベイト・タワーズはアブドゥルアズィーズ王寄贈事業の一環として建設された。一方、サウジアラビアの王室は世界中のマドラサに出資しており、サウジアラビアはアフガニスタンターリバーンの、主要な支援者でもあった。ただしターリバーンへの支援はムジャヒディーン時代にしかなくアメリカに比べるとほんのわずかな金額である。アルカイーダへの支援はなかったと2004年のアメリカの独立調査で判明している。2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件のあと、サウジアラビアとアラブ首長国連邦はターリバーン政権の承認を取り下げた。また、テロ組織への支援の証拠はないということにも注意すべきである。saar foundationへの調査でも証拠は見つからなかった。

2002年にはいわゆるアラブ和平イニシアティブを提唱した。これは当時サウジアラビアがイスラエルに対する、和平の最初の試みであると受け止められた。この計画はイスラエルに対し、パレスチナ自治政府に占領地区のほとんど全部を返還し、パレスチナ自治政府を承認するよう呼びかけたものであった。それと引き換えに、アブドゥッラーは前例の無い譲歩を申し出た。これには、アラブとイスラエルの衝突を終わらせイスラエルと和平条約を結ぶことや、イスラエル国を承認すること(1947年に国連による分割案が国連総会で承認されているにもかかわらず)、およびアラブとイスラエル間の国交正常化の成立といったものが掲げられた。これは先代のファハド国王が提案し、イスラエルの生存権を事実上黙認[4]したフェズ憲章を踏襲したものとされる。この計画は、フェズ憲章と同じようにアラブ連盟の首脳会議が全会一致で可決し、イスラム諸国会議機構全加盟国の支持も受け[5]、当時のイスラエル国防大臣だったベンヤミン・ベン・エリエゼルも「シオニズム運動史上最大の成果」[6]と歓迎したものの、具体的な交渉で頓挫した。2007年リヤドで開かれたアラブ連盟首脳会議でもイニシアチブが再確認され、ヤセル・アラファトの後を継いだマフムード・アッバースも「ヌアクショットからインドネシアまで全アラブ・イスラム諸国がイスラエルと平和を築く」としてイニシアチブの受け入れの要求をイスラエルの各主要新聞で大々的に宣伝した[7][8]。一方、ガザ政府ハマースはイスラエルの承認になることからイニシアチブに否定的であり[9]、拒否する姿勢を示した[10]

アラブの春に際しては、シリアの友人たちの一員としてシリア内戦に介入し、2011年バーレーン騒乱では湾岸協力会議の盟主として軍をおくった。安全保障面ではバンダル・ビン・スルターンを側近として重用していた。
慈善活動

2005年1月3日に、リヤドのアブドゥルアズィーズ国王医療センターで執刀された2人のポーランド人結合双生児の手術費用を負担した。アブドゥッラーはこの双子のことをインターネットで情報を知った医師[誰?]から知らされたのだという。14ヶ月児のダリアとオルガは15時間にわたる外科手術の後、無事分離された。
アメリカ合衆国との関係

アメリカ合衆国を何度も訪れている。

1976年10月リヤドで高い地位に就く準備をしているとき、アメリカ合衆国へ赴き当時の大統領ジェラルド・フォードに面会している。

1987年10月にもアメリカ合衆国へ赴き、当時の副大統領ジョージ・H・W・ブッシュに会っている。

1998年9月にはアメリカ合衆国を公式訪問し、ワシントンD.C.で当時の大統領ビル・クリントンと会談した。

2000年9月にはニューヨーク国連でのミレニアム祝賀会に出席した。

テロリズムに対する姿勢

2003年9月11日、アメリカ同時多発テロ2周年のとき、当時王太子だったアブドゥッラーはアメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュ宛に書簡を送っている。その書簡の末尾は次の通りである[11]

全能の神は、その英知で、このような災難が起こることを許すことにより、信仰を試されました。しかし、慈悲深い神はまた、私たちがこのような悲劇を素晴らしい業績に変えることができるように、そして人類の衰退の危機を前進の機会へと変えることができるように、信仰によってもたらされた意思と決断を下されました。私はただ、新たなる世界が、あなたの協力とリーダーシップと共に、世界貿易センタービルの瓦礫から現れることを願うばかりです。世界は、自由、平和、繁栄、および調和といった美徳に祝福されています。
脚注.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズに関連するメディアおよびカテゴリがあります。^ “サウジアラビアのアブドラ国王が死去、サルマン皇太子が即位”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞). (2015年1月23日). https://web.archive.org/web/20150123025242/http://www.asahi.com/international/reuters/CRWKBN0KV2T7.html 2015年1月24日閲覧。 
^ “サウジ国王、椎間板ヘルニア患う”. MSN産経ニュース. (2010年11月13日). オリジナルの2010年11月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20101124021127/http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/101113/mds1011131822003-n1.htm 2022年11月2日閲覧。 
^ “サウジ国王、国家警備隊司令官を辞任 病気理由か”. MSN産経ニュース. (2010年11月18日). オリジナルの2010年11月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20101124021221/http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/101118/mds1011181029005-n1.htm 2022年11月2日閲覧。 


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