アフリカ
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南アフリカのヨハネスブルグ北部などが人類が初めて住んだ場所と考えられる[14]。20世紀中頃には、人類学者たちは既に700万年以上古い人類の化石や生存の証拠類を発見していた。化石は、いく種もの類人猿に近い人類のものが発見され、放射年代測定から紀元前390-300万年頃に生きたと考えられるアウストラロピテクス・アファレンシス[17]や紀元前230-140万年頃のパラントロプス・ボイセイ(英語版)[18]、紀元前190-60万年頃のホモ・エルガステル[5]が人類へ進化したと推察される。先史時代、他の大陸と同様にアフリカに住む人類は、国家を持たず、現代のコイコイ人サン人のように狩猟採集社会の集団をつくって生活していた[19][20][21]

アフリカはおおまかに、氷河期に乾燥して砂漠が拡大し、間氷期には森林が拡大するという循環を繰り返していた。20000年前頃には拡大をしていたサハラ砂漠は、12000年前頃には縮小に転じ、森林地帯の広がりとともにチャド湖など湖水の面積も大きくなった。この北部アフリカの「緑のサハラ」地域で人類は、狩猟や漁撈またの牧畜[22]なども行っていた。

しかし5000年前頃から乾燥化が急速に始まり[23]、砂漠の拡大と生存可能域の縮小に伴って人類は熱帯性気候の西[23]や南、ナイル川流域などに移住して行った[16]
エジプト・地中海文明の発生詳細は「アフリカ史」を参照

アフリカを歴史的、文化的に大きく区分すると、北アフリカの文化圏、西アフリカの文化圏、東アフリカの文化圏に区分される。東アフリカがコプト正教会のエチオピアとイスラム教のインド洋沿岸部と大きく区分されるほかは、西アフリカで独特なアニミズムの伝統が濃厚に残ってきたにもかかわらず、イスラム文化圏であったことが共通している。アフリカの地図(G. and I. Blaeuによる1648年の地図) ポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマがインド洋航路を発見した150年後に制作された。海岸線は正確だが、内陸部、特に河川の流路に関する情報が極端に不足していたことが分かる。例えばナイル川が南部アフリカに達しており、ニジェール川の流路は全く異なっている。冒頭の地図と比較されたい。

最古の史料が残っているのはファラオによる支配が始まったナイル川流域の古代エジプト王国であり、紀元前3300年頃の文字記録が発見されている[24]。これは世界最古の文明の一つで[25][26]ヒエログリフから派生したワディ・エル・ホル文字と原シナイ文字原カナン文字)は世界の殆どのアルファベットの起源になったとされる。紀元前2900年頃、メネス王が上下エジプトを統一して以来、古王国時代に築かれたピラミッドでも世界的に知られている。紀元前1000年頃には製鉄技術が北アフリカにも伝播し、急速に広がってブラックアフリカ北部まで鉄器が使われるようになった[27]

一方、チュニジアでも紀元前800年頃にフェニキアの植民都市としてカルタゴが築かれ、経済大国となった。紀元前146年にカルタゴは共和政ローマに滅ぼされ、ローマ支配下のアフリカ属州となった。5世紀、ローマ帝国が弱体化し、ゲルマン民族の大移動の時代に、チュニジアでは、ヴァンダル族が、429年、カルタゴの故地にヴァンダル王国を建設したが、地中海世界の再統一に燃える東ローマ帝国によって534年に滅ぼされた。しかし、東ローマ帝国の北アフリカ支配も長くは続かず、636年、パレスチナのヤルムク河畔で日の昇る勢いのイスラム帝国正統カリフ)に敗れると、エジプトを奪われ、北アフリカはウマイヤ朝時代にイスラム勢力の支配下に入った。アッバース朝時代に勢力争いで、ハールーン=アッラシードに敗れたイドリースは、マグリブ(現モロッコ)の地へ逃げて、フェズイドリース朝を開いた。9世紀以降、アッバース朝カリフは、800年にチュニジアのアグラブ朝、868年にエジプト総督代理のイブン=トゥルーンが築き、フマーラワイフが貢納を条件にエジプト総督を世襲して事実上エジプト独自のイスラム王朝となったトゥルーン朝、トゥルーン朝滅亡後、やはりエジプト総督のイブン=トゥグジュにイフシードの称号を与えるとともに大幅な自治を認め、イフシード朝の建国(935年)を許すなど分裂傾向を強めた。
西アフリカ・北アフリカ1625年の西アフリカ

西アフリカでは、紀元前900年にさかのぼるといわれる土偶と製鉄技術をもったノク文化がナイジェリアの北部で生まれ、土偶の様式は、アフリカ中部から南部の彫刻に大きな影響をあたえた。ナイジェリアでは、9-10世紀のやイボ文化(英語版)やイボ=ウクゥ遺跡(英語版)(イボ=ウクゥ(英語版))、10-13世紀のヨルバ文化(英語版)(イフェ)、14-18世紀のベニン王国が繁栄し、優れた青銅製品で知られている。また西アフリカでは、紀元前500年頃に金属加工技術が到達したが、さらなる拡大は紀元後になった。エジプトやヌビア、エチオピアなど紀元前500年頃に製作された北部アフリカの青銅器が西アフリカで発掘されている。これは当時からサハラ交易が行われていた事を示す[23]。この交易を背景に繁栄したのがセネガル川上流とニジェール川上流に4世紀にさかのぼるといわれるガーナ王国であり、11世紀後半まで岩塩と金の中継貿易で興隆を誇った。その後、交易路の東漸に伴って、マリ帝国がニジェール川上流のニアニ首都とし湾曲部のトンブクトゥを版図に含んで13-15世紀前半まで繁栄、ソンガイ帝国が15世紀後半から16世紀にかけて、ニジェール川湾曲部を中心にナイジェリア北部のハウサ諸国を従え、マリ帝国を屈服させてその版図の大部分を奪い、ほぼ西スーダンを統一する広大な版図を誇った。

一方、西スーダンのこのような王国のサハラ越えの隊商による交易に利害のあった北アフリカ西部、マグリブにもベルベル人によって11世紀中葉-12世紀中葉にムラービト朝、12世紀中葉-13世紀頃にムワッヒド朝、13-15世紀にマリーン朝という強力なイスラム王朝が建てられた。特にムラービト朝は、ガーナ王国を滅ぼしたことで知られる。ソンガイ帝国は、1590年に、16世紀中葉にモロッコで興った強力なサアド朝(サーディ朝)に攻め滅ぼされた。イフリーキヤと呼ばれたチュニジアも、909年にアグラブ朝を倒して、ファーティマ朝が興ると、926年には西隣のイドリース朝を滅ぼした。969年に、エジプトに東遷して、イフシード朝を滅ぼすと、北アフリカの統一を完成し、新首都カイロに遷都(973年)して、カリフを称した。西カリフ国と呼ばれたイベリア半島後ウマイヤ朝に比して、中カリフ国と呼ばれた。エジプトではその後対十字軍戦争で活躍したサラディンによるアイユーブ朝、そのもとで実力をつけたバフリーヤなどのマムルークの力によって建国されたマムルーク朝が続く。一方、イフリーキヤでは、13世紀前半にムワッヒド朝から独立したハフス朝があり、これらの強力な王朝のもとで優れたイスラム建築が多数建設され、町並みが世界遺産に登録されているものも数多い。しかし、1517年にマムルーク朝、1574年にハフス朝がオスマン帝国によって併合される。

モロッコ、アルジェリア、チュニジアなどの北アフリカの北西部に位置するアラブ諸国はマグリブと呼ばれ、マシュリク(日の昇るところ、東方)に対して西方、すなわち、時と場合によってはリビアやモーリタニアも含められる。


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