アフリカ系アメリカ人
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その一方、アフリカ系アメリカ人男性同士の人類同胞主義の表現として「ニガ (nigga)」が使われる事も多々あり、その傾向は特にラップにおいて顕著である。しかし日本人などの黄色人種白人系アメリカ人を含め、アフリカ系アメリカ人以外の者達がこの表現を使う事は差別的言動とみなされる。

民族的回帰運動でもある「ブラック・パワー」を提起した黒人たちは、「ブラック・イズ・ビューティフル(黒は美しい)」をスローガンに掲げ、白人から否定され、自らも否定してきた黒人の人種的特徴を「黒人らしさ」として逆に強調し、彼らの民族的アイデンティティーを主張する表現のひとつとしてアフロヘアーという髪型も生み出した。彼らはキリスト教からイスラム教へ改宗したほか、自らを「ブラック(黒人)」と自称し、これは現在の黒人たちの一般的な自称となっている。

アメリカ陸軍においては、2014年11月8日まで軍内の規定で、黒人を指すときに「黒人もしくはアフリカ系の米国人」「ハイチ人」「ニグロ」などが使用可能であった。批判を受け、陸軍は「黒人もしくはアフリカ系の米国人」の表記のみを容認することとなった[2]
定義に関する論争

マーチン・ルーサー・キングの演説にあるようにアメリカ合衆国で単に「黒人」というときは奴隷解放宣言までに奴隷としてアメリカ合衆国に渡来したアフリカの人々の子孫を指すのが一般的である。しかし移民大国のアメリカには、現在に至ってもアフリカ、中南米カリブ海諸国から黒人の移民の流入がある。しかし、彼等は米国の手によってアフリカから連れて来られた黒人奴隷の子孫とは異なる(中南米やカリブ海諸国から流入した場合はスペインフランスイギリスなどにより連れて来られてきた黒人奴隷の子孫となる)ことから、アメリカ国籍を有さない場合は、「アフリカ系アメリカ人」という呼び名は該当しないとの指摘もある。例えば、コリン・パウエルはアフリカからジャマイカを経由し米国へ到着した移民の子孫であり、カリビアン・アメリカン(英語版)が正当な名称であるが、実際にはアメリカ国籍を持ちアフリカにルーツを持つ場合は、アフリカ系アメリカ人という名称が用いられる。

デブラ・ディッカーソン(英語版)は、黒人 (Black) という語は、アメリカ(America、アメリカ合衆国のみを指す名称ではなく両米の意味か)に奴隷として連れて来られた人々とその子孫に使用を限定すべきであると主張している[3]。また彼女は、アフリカ系 (African) についても同様の主張をしている[4]
ワンドロップ・ルール

1967年まで、一部のでは、ワンドロップ・ルールというものが使われていた。これは、16分の1、つまり自分の曽祖父に一人でもアフリカ系黒人が含まれる場合には、差別の対象者の一人とされていた。これは欧米系白人の血の方が濃い場合でも黒人の一人として分類されるという考えである。そのため、欧米系白人とアフリカ系黒人の間に生まれた子供も多くが奴隷として売られていった。例えば、第3代アメリカ合衆国大統領トマス・ジェファーソンが所有する奴隷であったサリー・ヘミングスは、4分の1だけ黒人の血を有していた。外観はほとんど白人に近く、真っ直ぐな髪を背中に垂らしていたが、奴隷とされていた[5]ケニア出身のアフリカ系黒人の父とアメリカ出身の欧米系白人の母を持つバラク・オバマが「アメリカ史上初の黒人大統領」と呼称された事からも分かるように、奴隷制度が無くなった現代でもこの考え方は残り続けており、消滅したわけではない。有色人種と欧米系白人の間に生まれた子供は自動的に有色人種として分類される場合が多い。オバマは若い時期をインドネシアハワイで過ごしており、本土の多くの黒人とは少し異なった事情を持つのも事実である。

南北戦争以前の奴隷制廃止州であっても、黒人の公民権・公立学校就学・異人種間結婚を禁止、または制限する「黒人法令」が制定されていたり、黒人の血を4分の1以上ひいている人間を州内に連れ込むことを禁止した特別令を出している自由州(en:Slave and free states)はあったが、終結の後の奴隷解放で南部の多くの州でも、「白人」と「黒人」の「違い」を無理矢理維持するために、奴隷解放令以前の南部には無かった「異人種結婚禁止法」が作られる。1913年時点には、48州中で32州で、白人と黒人の結婚と性交渉は法律で禁止されていた。1952年でも、48州のうち、29州に「異人種結婚禁止法」があった。アフリカから連れて来られた奴隷の血が一滴でも混じっていることが確認された場合、その当該する人物も「黒人」としてみなされた。白人が黒人をレイプして産まれた子供も黒人として扱われ、南部では公共の場で人種隔離が続き、生活のあらゆる面で誰を黒人とし、または白人とするか、線引きもなされた。それによって、黒人は「一滴の血」による奴隷の過去と差別を共有する強いグループ意識を持つようになった。やがてマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の登場により、彼の行いが起源となってアメリカ各地で黒人の平和的な解放運動が高まりを見せた。

現在のアフリカ系アメリカ人は他国のアフリカ系に比べると混血化が進んでおり、全体の約58%が8分の1以上、19.6%が4分の1以上、1%が2分の1以上が白人より受け継がれた血を有し、5%が8分の1以上がネイティブ・アメリカンとの混血と見られている。
血液型

アフリカ系アメリカ人 (African-American) の血液型の比率は、O型51%・A型26%・B型19%・AB型4.3%となっている[6]
歴史「アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史」、「公民権運動」、および「アメリカ合衆国の歴史」も参照

英領北アメリカでの記録に残る最初のアフリカ人は、1619年にバージニア州ジェームズタウンに入植した年季奉公人とされている。イギリス植民地時代からアメリカ独立初期にかけては、完全な奴隷制に移行する18世紀初頭までには、比較的自由に生活するアフリカ人も見られた。その後大西洋間奴隷貿易でアフリカから奴隷として連れてこられた人が増加。1860年までにアメリカ合衆国には350万人の奴隷にされたアフリカ人と、その他の奴隷ではない50万人のアフリカ人がいた[7]。奴隷船として輸送される際に病死する者が絶えず、かつて欧米諸国は1500万人の奴隷を運ぶ際に1人の黒人を新大陸に連れて行くまでに5人の黒人が中途で死んだという推計がある。

リンカーン大統領の1862年奴隷解放宣言で奴隷制が廃止されて以後も、政治的、人権的な権利の制限は続いた。

南北戦争奴隷制度の撤廃を目指す北部の勝利以後、かなり以前から奴隷制度を禁止していた北部ではアフリカ系アメリカ人に対する差別意識は比較的薄く、ニューヨークシカゴではアフリカ系アメリカ人の市長が誕生した前例がある。しかし、長期間アフリカ系アメリカ人奴隷の労働力に依存してきた南部では、アフリカ系アメリカ人に対する差別意識が強く残った(ジム・クロウ法)。アフリカ系アメリカ人に対しアメリカ全土で法の下の平等が保障されるのは、1960年代の公民権運動の成就による公民権法の施行を待たなければならなかった。

なお奴隷制度廃止後、奴隷から解放されて自由になったアメリカ黒人(解放奴隷)の自由の国として西アフリカリベリアシエラレオネが建国されたが、両国とも内戦を経て未だ最貧国である。特にシエラレオネは子供までもが戦争に狩りだされ殺戮を行うなど、差別を受けながらも後に社会的な地位を上げたアフリカ系アメリカ人とは雲泥の差の生活を強いられている。またカナダのほうが奴隷廃止が早かったためにアメリカの奴隷がカナダに移住した事があった。

また、第二次世界大戦においては、人手不足からアフリカ系アメリカ人も軍人として戦争に参加することになった。当時「民主主義の武器庫」を自認していたアメリカであったが、「民主主義」という言葉とは裏腹に、大戦中に将官になったアフリカ系アメリカ人はベンジャミン・デイヴィス准将のみである。実際の戦闘に参加したものはわずか5%で、そのすべてが「黒人部隊」での参戦であった。残りのほとんどが単純作業を中心とした後方支援業務に従事するなど、参戦によっても差別は解消されなかった(現在の視点だと、死と隣り合わせの戦闘に参加したのは大多数が白人である方が逆差別となる)。なお、「黒人部隊」が廃止されるのは、公民権法の制定後に戦闘が本格化したベトナム戦争においてであった。

1940年代後半に入り、ハリー・S・トルーマン大統領が公民権運動の支持を表明し、1950年代以降、マーティン・ルーサー・キングなどを指導者に、アフリカ系アメリカ人をはじめとする被差別民族に対する法的平等を求める公民権運動が盛り上がりを見せる。その結果、1964年7月2日に法の下の平等を規定した市民権法が制定された。

しかし法的な差別が撤廃され、それがゆえに「自由な国家」であることを標榜する現在においても、白人が多数を占めるアメリカ社会での少数派(約20%)である黒人に対する差別意識は根強く残り、白人に比べて低学歴の貧困層が多い。


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