アフリカ分割
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特に、ベルギーの国王レオポルド2世が王家の私的な領地としてアフリカに植民地を持つことを目指し、探検家スタンリーを中部アフリカに派遣してコンゴ川流域の領有化をはかると、ベルギーの国内外を巻き込んだ大きな問題となった。また、西アフリカの大河川ニジェール川流域には北のサハラ側からフランス、南の大西洋側からイギリスの勢力がのび、対立が明らかとなる。

これに対しドイツのビスマルク首相はコンゴとニジェールの問題の協議をつうじてアフリカ植民地化の列強の利害を調整する会議の開催を提唱し、1884年ベルリン会議が開かれた[6]。14か国が参加したこの会議によってコンゴ川およびニジェール川の航行の自由が定められ、ベルギー王領コンゴはコンゴ自由国として形式的に独立し、ベルギー王の領有が認められる。加えて、沿岸部を新規に領有した国は、その後背地の領有を国際的に認められること、新規に領土を得た国は他の列強にその事実を通告することなどを定めた植民地化の原則が合意された[7]

当然、これらの一連の協定はアフリカ現地の人々の意向はまったく考慮に入れないものであった。そのため、アフリカではヨーロッパ列強の支配が及んでくるのに対し、さまざまな抵抗運動が起こった[8]。すなわち、スーダンにおけるマフディー運動、西アフリカのトゥクロール帝国1848年?1890年)および後継国家のサモリ帝国(英語版)(1878年?1898年)のジハード政権、タンザニアマジ・マジ反乱などであるが、これらはいずれも圧倒的に進歩したヨーロッパ列強の軍事技術の前に敗れ去り、滅びた。

また、ヨーロッパが到来する以前から、アフリカ現地には様々な土着の王国が既に存在していたが、これらも同様に武力で制圧され、20世紀の初頭までに消滅したり、植民地に内包された保護領になっていった[7]。わずかな例外は、1896年に侵攻してきたイタリア軍を撃退し、独立を保ったエチオピア帝国である[9]。もうひとつの独立を保ったリベリアは、1847年アメリカ合衆国から送り込まれた解放奴隷たちが立てた国で、英語を話しキリスト教を信仰するアメリカ帰りの黒人たちによる土着黒人を支配したその体制は、周辺諸国の植民地支配と実のところ大差ないものであり、しかも政治的にアメリカの強い影響下にあった[10]
列強間の衝突と分割の完了 カイロからケープタウンまでの鉄道用電線を敷設するセシル・ローズの風刺画

ベルリン会議を成功させたドイツのビスマルクは、1885年タンガニーカ(現在のタンザニア)にドイツ領東アフリカ植民地を建設し、カメルーントーゴランド、西南アフリカ(ナミビア)を次々に獲得した。さらに、縦断政策により本来この地方の領有をねらっていたイギリスと東アフリカ分割協定を結び、ケニアおよびウガンダをイギリスに譲って過度な植民地拡大による外国との衝突を避けた。

しかし列強の角逐はやまず、1898年にはマフディー戦争によってイギリスの勢力が後退したスーダンにフランスが進軍し、イギリスとフランスの間で武力衝突の危機となったファショダ事件が起こった。スーダンはイギリスの縦断政策とフランスの横断政策の交点であったためであるが、結局はフランスが先にスーダンに進出していたイギリスを尊重して譲歩し、衝突は回避された。

1904年、イギリスとフランスは最終的な妥協を行い、英仏協商を結んで同盟する。このときまでに西アフリカには広大な仏領西アフリカ植民地が形成され、アルジェリア・チュニジアと仏領コンゴ、ジブチ、そしてマダガスカルがフランス植民地として確定した。一方、イギリスはエジプト・スーダン・ケニア・ウガンダに加え、ニジェール川下流域のナイジェリアを植民地化し、さらにブーア戦争に勝利して南部アフリカに広大な植民地を獲得していた。

一方、1888年に即位したドイツのヴィルヘルム2世は、1890年にビスマルクを退けて植民地獲得に積極的に取り組み、英仏と対立した。1905年には、英仏協商によって帰属未確定のモロッコがフランスの勢力圏に定められたことに対抗し、第一次モロッコ事件を起こして圧力をかける。しかし、この問題の解決のために開かれたアルヘシラス会議ではスペインとイギリスがフランスの側につき、モロッコはフランスとスペインの勢力圏と定められた。1911年、ドイツはモロッコに軍艦を派遣し、再びフランスを牽制した(第二次モロッコ事件)が、結局フランスに譲歩せざるを得なくなり、モロッコをフランスの保護国とすることを認めた。

同じ1912年、イタリアがイタリア・トルコ戦争に勝利してオスマン帝国から北アフリカのトリポリキレナイカを獲得し、イタリア領リビアを成立させた。リビアとモロッコの帰属確定により、リベリアとエチオピアを除くアフリカの全土はヨーロッパの列強によってことごとく分割し尽くされ、植民地と成っていった。
1912年のアフリカの領有区分
イギリス「イギリス帝国」も参照

イギリス領エジプト(保護国)

イギリス・エジプト領スーダン(エジプトと共同統治。現:スーダン南スーダン


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