アフリカの年
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彼はその後に誘拐されて拷問を受け、処刑された[8]コンゴ動乱)。

ソマリア:7月1日にイタリアからの独立を達成し、5日前にイギリスからの独立を達成したソマリランドと合併[7]

ダホメ:1958年に実施された投票によってフランス共同体内の自治領となり、8月1日に独立を達成。独立直後から政情は不安定であり、1975年に国名をベナンに改称した[7]

ニジェール:1958年に実施された投票によってフランス共同体内の自治領となり、この年の8月3日に独立を達成。アマニ・ディオリ初代大統領は1974年に発生したクーデターによって失脚した[7]

オートボルタ:1958年にフランス共同体内の自治領を宣言し、この年の8月5日に独立を達成。1984年に国名をブルキナファソに改称した[7]

コートジボワール:1958年に実施された投票によってフランス共同体内の自治領となり、この年の8月7日に独立を達成。フランスとの親密な関係を維持し、西アフリカで最も豊かな国の一つとなった[7]

チャド:1958年にフランス共同体内の自治領を宣言し、この年の8月11日に独立を達成。フランソワ・トンバルバイ初代大統領は少数派の南部のキリスト教徒の出身であり、北部のイスラム教徒との関係が急速に悪化し、内戦に発展した[7]

中央アフリカ共和国:1958年にフランス共同体内の自治領を宣言し、この年の8月13日に独立を達成。初代大統領の従兄弟で国民的英雄でもあったバルテレミー・ボガンダは独立前年の1959年3月29日に飛行機事故により、亡くなった[7]

コンゴ共和国(コンゴ・ブラザヴィル):1958年に実施された投票によって99%の人々がフランス共同体内の自治領となる道を選択し、この年の8月15日に独立を達成[7]

ガボン8月17日にフランスからの独立を達成[7]

ナイジェリア10月1日北部州西部州東部州の3地域の連邦制国家としてイギリスからの独立を達成。アフリカ大陸で最も多くの人口を抱える国となり、直ぐに深刻な民族・宗教対立の問題に直面した[7]

モーリタニア11月28日モロッコアラブ連盟からの反対にもかかわらず、フランスからの独立を達成[7]

1960年のアフリカに関するその他の主な出来事シャープビル虐殺を描いた絵アベベ・ビキラ(1968年撮影)
南アフリカ

この年の3月21日に南アフリカのヨハネスブルグ近郊で人種別に隔離するパス法に反対する黒人の群衆の抗議運動に対して警察官が発砲して多数の死傷者を出すシャープビル虐殺事件が発生した[9]。この出来事は時々、アパルトヘイトに対する世界的な闘争の始まりとして引用されている[10]
アベベ・ビキラ

1960年夏季(ローマ)オリンピックにおける陸上競技マラソン種目ではエチオピア出身のアベベ・ビキラが優勝を果たし、サハラ以南のアフリカ出身者としては初のオリンピック金メダリストとなった。アベベの活躍はアフリカ黒人の自尊心を高め、新しい時代のアフリカの象徴となった[11]
国際連合

10月にはガーナクワメ・エンクルマ大統領が国際連合総会における演説の中でアフリカの自由を主張し、主に南アフリカに対して白人至上主義を終結させるよう呼びかけた[12][13]

「我々の時代の一つの基本的事実は、アフリカの覚醒が現代世界にもたらす重大な影響である。アフリカのナショナリズムの潮流はあらゆるものを押し流し、この大陸に行なわれてきた長年の不正義や犯罪からの回復を植民地保有国に要求するものである。しかし、アフリカは復讐を求めない。悪意を抱く事はアフリカの本性に反している。200万人以上の人民は声を揃え、非常な力をもって叫ぶ。彼らは何と言うのだろうか? 我々は抑圧者の死を求めないし、奴隷所有主の不運な末路も願わない。我々は正当で前向きな要求を主張する。その声は海に山に、丘に谷に、砂漠に、人類の住む広大な土地に響き渡り、アフリカの自由を求める。アフリカは自由を望んでいる。アフリカは自由でなければならない。これは単純な叫びだが、これを無視しがちな人たちに強い警告を与える信号でもある。」

12月14日に国際連合総会は植民地独立付与宣言を採択した。この宣言文では「全ての人々が自己決定権を持っている」としており、外部の圧力によってそのルールを構成するのは人権侵害であると断言している。反対票無しで可決され、7つの宗主国(アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ベルギー、ポルトガルスペイン、南アフリカ)は棄権した[14]
関連項目

アジア・アフリカ諸国の独立年表

脚注^ a b “ ⇒1960-2010: 50 years of 'African independences” (英語). On Africa. 2014年3月2日閲覧。
^ “ ⇒1960: The Year of Africa” (英語). CBC. 2014年3月2日閲覧。
^ Guy De Lusignan (英語). French-speaking Africa Since Independence (Library of African Affairs). Pall Mall Press. p. 24. .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 978-0269993268 


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