アフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジー
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大きな旗3本もあり、2本は白地に赤い月、1本は赤地に白い月であった」と記されている[14]

両軍は交渉などしながら数日にらみ合ったが、4月4日、ポルトガル軍は歩兵方陣(英語版)を組み、マスケット銃と大砲でアフマド兵を退けながら進軍した。銃撃が偶然アフマドの足に当たり、それを機会にアフマドは退却を命じた。エチオピア・ポルトガル両軍は追撃を行い、混乱するムスリム軍を打ち破った。しかしアフマド軍は遠方の川を渡ると体勢を纏めなおし、全軍崩壊は免れた。

数日経って、アフマド軍に援軍が加わった。ポルトガル軍はこの状況を受けて直ちに行動を開始し、4月16日、再び歩兵方陣で軍を進めた。戦闘は2週間足らず行われ、アフマド軍の馬に多少の損害を与えたものの、今度はポルトガル軍が敗北した。ポルトガル側の記録には「敵は戦いに完全勝利し、我々は敵の騎馬100ほどを討ち取っただけだった。敵は軍令をよく聞き、逃亡しなかった」と書かれている[15]


ポルトガル軍はエリトリア地方の王バール・ニーガス・イシャク(英語版)の援軍と合流して南方に向かい、10日後、アフマド軍と対峙した。しかし雨季となったため、しばらく睨み合いが続いた。ポルトガル軍はエチオピア皇后サブラ・ウェンゲルの助言に従い、アクスム南方のアシェンジェ湖(英語版)畔のウォフラ(英語版)に宿営した[16]。一方、アフマド軍はゾビル山に宿営した[17]

アフマドは銃の多寡が勝敗を決めると考え、オスマン帝国に助力を頼んでマスケット銃士2000、大砲、他900名を送ってもらった。一方、ポルトガル軍は、これまでの戦闘や部署振り分けの都合などで、マスケット銃士は300にまで減っていた。雨季が終わると、アフマドはポルトガルの宿営地に攻撃をかけ、その大半を殺し、140名を捕虜とした。司令官のクリストヴァン・ダ・ガマもまた部下10名と共に捕まり、イスラームへの改宗を拒否して処刑された[18]
ワイナ・ダガでの敗戦

ポルトガル軍の生き残りはエチオピア軍と合流し、さらにポルトガルからの援軍も加わった。1543年2月21日、ポルトガル・エチオピア連合軍9000、アフマド軍1万5千でワイナ・ダガの戦い(英語版)が行われ、アフマド軍は敗北した。この中でアフマドも戦死した。アフマドの戦死により、アフマド軍は崩壊した。

アフマドの妻バティ・デル・ワムバラは残った兵と共に戦場から逃げ、本拠地のハラールに戻った。バティは体勢を立て直すため、甥のヌル・イブン・ムジャヒド(英語版)と結婚し、軍を再編した。しかしすでに反撃するだけの力は残っていなかった。

アフマドの侵攻は、その後長くエチオピアで語り継がれた。20世紀のエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世も回想録の中で、幼い頃にグラン(アフマド)がエチオピアの町や教会を破壊したとの話を聞いたと記している[19]
情報源

イスラーム側の記録として、シハーブッディーン・アドマド・イブン・アブドゥルカディールがアラビア語で「エチオピア征服(Futuh al-haba?a)」を書き残している。ただしこの多くは失われており、1537年のタナ湖での戦いについてのみ残されている。探検家のリチャード・フランシス・バートンは、この残りの部分をイエメンモカあるいはフダイダで見たと証言しているが、これに相当するものは今日まで見つかっていない。アラビア語からの翻訳は、1897年から1901年にルネ・バッセ(Rene Basset)がフランス語へと行っている。英語への抄訳は、リチャード・パンクハースト(英語版)が「エチオピア王室年代記」の中で行っている。英語への全訳は、ポール・レスター・ステンハウスが2003年に行っている[20]

ポルトガル側の記録として、1902年にR.S.ホワイトウェイが「ポルトガルのエチオピア探検」の中に記している[21]。エチオピア側の記録として、エチオピア国史のダウィト2世、ガローデオスの章に記載がある。
参考文献^ a b c Saheed A. Adejumobi, The History of Ethiopia, (Greenwood Press: 2006), p.178
^ John L. Esposito, editor, The Oxford History of Islam, (Oxford University Press: 2000), p. 501
^ a b Franz-Christoph Muth, "Ahmad b. Ibrahim al-Gazi" in Siegbert Herausgegeben von Uhlig, ed., Encyclopaedia Aethiopica: A-C (Wiesbaden:Harrassowitz Verlag, 2003), pp. 155.
^ Nikshoy C. Chatterji, Muddle of the Middle East, (Abhinav Publications: 1973), p.166
^ Charles Fraser Beckingham, George Wynn Brereton Huntingford, Manuel de Almeida, Bahrey, Some Records of Ethiopia 1593-1646: Being Extracts from the History of High Ethiopia or Abassia By Manoel De Almeida, Together with Bahrey's History of the Galla, (Hakluyt Society: 1954), p.105
^ Charles Pelham Groves, The Planting of Christianity in Africa, (Lutterworth Press: 1964), p.110


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