アフガニスタン
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6月10日 - 6月19日、緊急ロヤ・ジルガ(国民大会議)が開催され[注釈 9]、1500人以上の代表が参加した。6月13日、国家元首(大統領)を決める選挙が緊急ロヤ・ジルガで行われ、ハーミド・カルザイが圧倒的多数の票を獲得し当選した[43]6月15日、今後2年間の国名を「アフガニスタン・イスラム暫定政府」に決定する。 6月19日、新暫定政府主要14閣僚と最高裁判所長官の名簿を公表。副大統領にファヒーム国防相・アブドゥッラー外相・アシュラフ・アリー財務相(カルザイ顧問兼任)らが兼任。ザーヒル・シャーの閉会宣言でロヤ・ジルガは閉会した。7月1日、米軍が南部ウルズガン州で誤爆。市民48人死亡、117人が負傷する。カルザイ大統領の就任式(2004年)右奥に着席しているのはザーヒル・シャー元国王

2004年1月、新憲法が発布された[44]10月9日、第一回の大統領選挙が行われ、12月7日にハミード・カルザイが大統領に就任した[45]。同年3月、パキスタンでワジリスタン紛争が勃発した。

2005年9月、下院議員選挙や州議会選挙が行われ、国家統治機構の整備が完了した[44]。12月、国会が開会した[44]

2006年、南部・南東部・東部を中心にターリバーンの攻撃が増加した[46]。7月、国際治安支援部隊(ISAF)が国内全土に展開した[47]

2007年、前年に引き続きターリバーンの攻撃が増加した[48]

2008年、治安が著しく悪化し、南部や東部だけでなく首都カーブルの近隣でもターリバーンの攻撃が行われた[49]。8月にはアフガニスタン日本人拉致事件が起きた。

2009年8月、第二回の大統領選挙が実施された。カルザイが過半数の票を得るが、国連の調査で不正が発見される。2位のアブドラ前外相が決選投票をボイコットしたため、11月に行われた決選投票でカルザイの再選が決定した[50]。一方、ターリバーンは「比較的安定していた地域の不安定化を招き、市民の犠牲を顧みない、より洗練され、かつ複合的な攻撃を増加させて」おり、即席爆発装置(IED)による攻撃が急増した[51]。同年、アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領は3回の増派を行った(1万7000人[52]、4000人[53]、1万3000人[54])。アメリカ合衆国の駐留軍の総数は6万8000人に達し[54]、その中から国際治安支援部隊(ISAF)に1万人以上が追加派遣された[51]
第二回大統領選挙後

2010年1月、カルザイ政権の外務・内務・国防・財務の4主要閣僚が確定した[55]。同年、国際治安支援部隊(ISAF)は4万5000人以上が増員され、49か国・約13万人に達した[56]。国際治安支援部隊(ISAF)は積極的に作戦行動を行ったので、戦争は更に激しくなり国際治安支援部隊(ISAF)や民間人の死傷者が急増した[57][58]。6月、アメリカ合衆国の駐留軍司令官のスタンリー・マクリスタルが政権批判により解任された[59]。7月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲が始まった[60]9月18日、第二回の下院議会選挙が実施された[61]。同年、カルザイ大統領がターリバーンとの和平を目指す高等和平評議会を発足させた[57]。2010年の経済成長率は22.5%に達した[56]

2011年5月2日、アメリカ軍がパキスタンでビン=ラーディンを殺害した(ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害[62]。同年、アメリカ合衆国の駐留軍は約10万人に達したが[63]、年内に1万人、2012年夏までに3万3000人の兵員を削減すると発表した[60]

2012年7月、日本国政府は「アフガニスタンに関する東京会合」を開催し、アフガニスタン政府が統治を改善し開発戦略を自発的に実施する代わりに、国際社会がアフガニスタンに対して2015年まで160億ドルを超える支援を行うことを約束した。12月、依然として約10万人の国際治安支援部隊(ISAF)がアフガニスタンに展開していた[64]。一方、同年のアフガニスタンの腐敗認識指数は167か国中の最下位だった[65]


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