2004年1月、新憲法が発布された[44]。10月9日、第一回の大統領選挙が行われ、12月7日にハミード・カルザイが大統領に就任した[45]。同年3月、パキスタンでワジリスタン紛争が勃発した。
2005年9月、下院議員選挙や州議会選挙が行われ、国家統治機構の整備が完了した[44]。12月、国会が開会した[44]。
2006年、南部・南東部・東部を中心にターリバーンの攻撃が増加した[46]。7月、国際治安支援部隊(ISAF)が国内全土に展開した[47]。
2007年、前年に引き続きターリバーンの攻撃が増加した[48]。
2008年、治安が著しく悪化し、南部や東部だけでなく首都カーブルの近隣でもターリバーンの攻撃が行われた[49]。8月にはアフガニスタン日本人拉致事件が起きた。
2009年8月、第二回の大統領選挙が実施された。カルザイが過半数の票を得るが、国連の調査で不正が発見される。2位のアブドラ前外相が決選投票をボイコットしたため、11月に行われた決選投票でカルザイの再選が決定した[50]。一方、ターリバーンは「比較的安定していた地域の不安定化を招き、市民の犠牲を顧みない、より洗練され、かつ複合的な攻撃を増加させて」おり、即席爆発装置(IED)による攻撃が急増した[51]。同年、アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領は3回の増派を行った(1万7000人[52]、4000人[53]、1万3000人[54])。アメリカ合衆国の駐留軍の総数は6万8000人に達し[54]、その中から国際治安支援部隊(ISAF)に1万人以上が追加派遣された[51]。 2010年1月、カルザイ政権の外務・内務・国防・財務の4主要閣僚が確定した[55]。同年、国際治安支援部隊(ISAF)は4万5000人以上が増員され、49か国・約13万人に達した[56]。国際治安支援部隊(ISAF)は積極的に作戦行動を行ったので、戦争は更に激しくなり国際治安支援部隊(ISAF)や民間人の死傷者が急増した[57][58]。6月、アメリカ合衆国の駐留軍司令官のスタンリー・マクリスタルが政権批判により解任された[59]。7月、国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府への治安権限の移譲が始まった[60]。9月18日、第二回の下院議会選挙
第二回大統領選挙後
2011年5月2日、アメリカ軍がパキスタンでビン=ラーディンを殺害した(ウサーマ・ビン・ラーディンの殺害)[62]。同年、アメリカ合衆国の駐留軍は約10万人に達したが[63]、年内に1万人、2012年夏までに3万3000人の兵員を削減すると発表した[60]。
2012年7月、日本国政府は「アフガニスタンに関する東京会合」を開催し、アフガニスタン政府が統治を改善し開発戦略を自発的に実施する代わりに、国際社会がアフガニスタンに対して2015年まで160億ドルを超える支援を行うことを約束した。12月、依然として約10万人の国際治安支援部隊(ISAF)がアフガニスタンに展開していた[64]。一方、同年のアフガニスタンの腐敗認識指数は167か国中の最下位だった[65]。