1979年10月上旬のアミーンによるタラキー前大統領処刑が、ソ連指導部を軍事介入に向かわせた。介入に積極的であったのは、ブレジネフの後継を意識していたアンドロポフKGB議長とウスチノフ国防相であった。10月27日にアミーンがアメリカ大使館職員と会談したことも、ソ連側のアミーンへの疑念を増大させた[35]。12月12日モスクワでの政治局会議で、軍事介入が正式に承認された[36]。
ソ連=アフガニスタン国境およびアフガニスタン領内でのソ連軍の増強に対し、12月15日アメリカ国務長官ヴァンスは、駐モスクワ大使に、グロムイコ外相と即時面会しソ連軍増強への説明を求めるように指示した。また、ヴァンスは、一方的な軍増強は、1972年5月の米ソサミットで合意された、米ソ両国は友好関係を尊重するという原則に反する、と抗議した。ソ連側はアメリカの抗議をはねつけた[37]。
1979年12月25日午後3時、ソ連はアフガニスタンへの軍事侵攻作戦を開始した。12月27日夕刻、KGB特殊部隊がアミーンの官邸を攻撃し、アミーンを処刑、バブラク・カールマル副議長を革命評議会議長兼大統領兼首相に擁立した[38]。 以後、ソ連軍および政府軍とこれに抵抗するムジャーヒディーンとの戦闘がさらに激化する。
1982年、国連総会において、外国軍の撤退を要求する国連決議(37/37)が採択される。
1987年、ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。国名をアフガニスタン共和国に戻す。
1988年、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結。ソ連軍の撤退と国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション設置が決定される。
1989年、ソ連軍撤退完了。各国から参加したムジャーヒディーンの多くも引き上げた。しかし、戦後も国内のムジャーヒディーン各派は人民民主党政府打倒を目指して武装闘争を続けた。「アフガニスタン戦争における女性たち
(英語版)」も参照1996年までに、国の大部分がイスラム原理主義勢力のターリバーンに取り込まれ、全体主義的な政権によって支配された。1989年、ソ連軍撤退後の国内支配をめぐってアフガニスタン紛争 (1989年-2001年)が始まる。2月にアフガニスタン国内のムジャーヒディーン各派はシブガトゥッラー・ムジャッディディーを暫定国家元首に指名、ジャラーラーバードの戦いでナジーブッラーが率いる人民民主党政府と戦うも敗北する。
1992年、ナジーブッラー政権崩壊。ムジャーヒディーンのジャマーアテ・イスラーミー(ペルシア語版、ロシア語版、英語版)(イスラム協会、ラッバーニー派)主導によるアフガニスタン・イスラム国が成立。
1993年、イスラム協会のブルハーヌッディーン・ラッバーニー指導評議会議長が大統領に就任。
1994年、内戦が全土に広がる。ターリバーン、パキスタンの北西辺境州(旧北西辺境州(英語版)がパキスタン領となったもの)から勢力を拡大。
1996年、ターリバーンがカーブルを占領し、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言する。アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致、北部同盟[注釈 3](マスード派とドスタム派)となる。同年、米国の指示によりスーダン政府はウサーマ・ビン=ラーディンの国外追放を実行、ビン=ラーディンの率いるアル・カーイダがアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近する。
1997年、第一次マザーリシャリーフの戦い(英語版)でターリバーンが敗北。
1998年、第二次マザーリシャリーフの戦いでターリバーンが勝利。ドスタム派を駆逐してアフガン全土の9割を掌握するが、イラン領事館員殺害事件が発生。イランとターリバーンの双方が国境付近に兵を集結させ、一触即発の危機を招いたが、ラフダル・ブラヒミ国連特使の仲介により危機が回避された[40]。また、ケニアとタンザニアで起きたアメリカ大使館爆破事件に伴うアル・カーイダ引き渡し要求をターリバーンが拒否したため、アメリカとの関係が緊張化する。
1999年、ターリバーン支配地域に対する経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1267(英語版)が採択される。
2000年、ターリバーン支配地域に対する追加経済制裁を定めた国際連合安全保障理事会決議1333(英語版)が採択される。