広範な勢力を取り込んだ「連合政府」を樹立させアフガニスタン政府の基盤を強化することが急務であると考えたソ連指導部は、9月9日、タラキーに対して、軍事援助の増額と引き換えに、個人的野心で行動するハフィーズッラー・アミーンの排除を要求したが、アミーンが対抗手段を準備している事を知るタラキーは逡巡した。9月13日夜、プザノフ大使などカーブルのソ連側現地責任者たちは、タラキーとアミーンとの会談を要求した。この会談でソ連側はアミーンの政治姿勢を強く非難したが、タラキーはアミーンを解任しなかった。そこで、翌日タラキーの公邸で、ソ連側立ち合いの下、両者は再度会談を行うことになった。アミーンが解任されなかったことを知ったタラキー派のPDPA上級幹部数名はソ連大使館に逃亡した。タラキー自身もソ連側に助けを求めた。9月14日午後、会談のためタラキーの公邸に入ろうとしたアミーンに、大統領の護衛が発砲した。アミーンの補佐官は射殺されたが、アミーンは無傷で難を逃れ暗殺は失敗した。アミーンは、自分に忠実な軍の部隊を動員し、PDPAのリーダーに就任しタラキーを追放した。10月9日、タラキーは獄中で処刑された[34]。 1979年10月上旬のアミーンによるタラキー前大統領処刑が、ソ連指導部を軍事介入に向かわせた。介入に積極的であったのは、ブレジネフの後継を意識していたアンドロポフKGB議長とウスチノフ国防相であった。10月27日にアミーンがアメリカ大使館職員と会談したことも、ソ連側のアミーンへの疑念を増大させた[35]。12月12日モスクワでの政治局会議で、軍事介入が正式に承認された[36]。 ソ連=アフガニスタン国境およびアフガニスタン領内でのソ連軍の増強に対し、12月15日アメリカ国務長官ヴァンスは、駐モスクワ大使に、グロムイコ外相と即時面会しソ連軍増強への説明を求めるように指示した。また、ヴァンスは、一方的な軍増強は、1972年5月の米ソサミットで合意された、米ソ両国は友好関係を尊重するという原則に反する、と抗議した。ソ連側はアメリカの抗議をはねつけた[37]。 1979年12月25日午後3時、ソ連はアフガニスタンへの軍事侵攻作戦を開始した。12月27日夕刻、KGB特殊部隊がアミーンの官邸を攻撃し、アミーンを処刑、バブラク・カールマル副議長を革命評議会議長兼大統領兼首相に擁立した[38]。 以後、ソ連軍および政府軍とこれに抵抗するムジャーヒディーンとの戦闘がさらに激化する。 1982年、国連総会において、外国軍の撤退を要求する国連決議(37/37)が採択される。 1987年、ムハンマド・ナジーブッラーが大統領に就任。国名をアフガニスタン共和国に戻す。 1988年、「アフガニスタンに関係する事態の調停のための相互関係に関する協定」が締結。ソ連軍の撤退と国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション設置が決定される。 1989年、ソ連軍撤退完了。各国から参加したムジャーヒディーンの多くも引き上げた。しかし、戦後も国内のムジャーヒディーン各派は人民民主党政府打倒を目指して武装闘争を続けた。「アフガニスタン戦争における女性たち
ソ連軍によるアフガニスタン侵攻
ソ連軍の撤退後、ターリバーン政権の統治カーブルでインタビューを受けるビン・ラーディン(1997年)1996年時点のアフガニスタン、赤と緑の北部同盟、黄色がターリバーンの支配地域
1996年までに、国の大部分がイスラム原理主義勢力のターリバーンに取り込まれ、全体主義的な政権によって支配された。1989年、ソ連軍撤退後の国内支配をめぐってアフガニスタン紛争 (1989年-2001年)が始まる。2月にアフガニスタン国内のムジャーヒディーン各派はシブガトゥッラー・ムジャッディディーを暫定国家元首に指名、ジャラーラーバードの戦いでナジーブッラーが率いる人民民主党政府と戦うも敗北する。
1992年、ナジーブッラー政権崩壊。ムジャーヒディーンのジャマーアテ・イスラーミー(ペルシア語版、ロシア語版、英語版)(イスラム協会、ラッバーニー派)主導によるアフガニスタン・イスラム国が成立。
1993年、イスラム協会のブルハーヌッディーン・ラッバーニー指導評議会議長が大統領に就任。
1994年、内戦が全土に広がる。ターリバーン、パキスタンの北西辺境州(旧北西辺境州(英語版)がパキスタン領となったもの)から勢力を拡大。
1996年、ターリバーンがカーブルを占領し、アフガニスタン・イスラム首長国の成立を宣言する。アフガニスタン・イスラム国政府とムジャーヒディーンの一部が反ターリバーンで一致、北部同盟[注釈 3](マスード派とドスタム派)となる。同年、米国の指示によりスーダン政府はウサーマ・ビン=ラーディンの国外追放を実行、ビン=ラーディンの率いるアル・カーイダがアフガニスタン国内に入り、ターリバーンと接近する。