アフガニスタン
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19世紀後半、アフガニスタンは英露の「グレート・ゲーム」の緩衝国となった[30][31]。1839年から1842年にかけての第一次アングロ・アフガン戦争では、英領インドから来たイギリス軍がアフガニスタンを制圧したが、その後、イギリス軍が大敗して撤退した。1878年から1881年に起こった第二次アングロ・アフガン戦争でもイギリス領インド帝国駐留のイギリス軍が、アフガニスタンに侵攻した後に駐留し、自立支配を認めるが外交権はイギリスに委ねる条件で撤退した。

シール・アリー・ハーン在位時に起きた第二次アフガン戦争1878年 - 1880年)のカンダハールの戦い(英語版)でアフガニスタン首長国はイギリスに敗れ、ガンダマク条約(英語版)でその保護国となった。英露はアフガニスタンを新たな緩衝国家として中央アジアで対峙した。

1885年、イギリスとロシア帝国との間でパンジェ紛争(英語版)が起きる。イギリスは朝鮮半島沖の巨文島巨文島事件を起こし、ロシアを牽制した。

1893年、パキスタンとの国境線デュアランド・ラインにアフガニスタン首長国とイギリスが合意。1895年、チトラール遠征(英語版)。
アフガンの王家による再独立

1919年の第三次アングロ・アフガン戦争の後、アフガニスタンは外国の影響から独立し、アマーヌッラー・ハーンの下で君主制となる。しかし、1973年にザーヒル・シャーが倒され、アフガニスタン共和国 (1973年-1978年)が樹立された。1919年第三次アフガン戦争に勝利したアマーヌッラー・ハーンはイギリスからの独立を達成し、独立した君主として即位した。1926年、国名をアフガニスタン王国とする。同年、オーレル・スタインインダス川上流およびスワート川(英語版)流域(デュアランド・ライン)を調査旅行した。アマーヌッラーは、トルコ共和国の新指導者ケマル・アタテュルク世俗主義民族主義共和主義を柱とする改革に影響され、同様の改革を推進したが、宗教改革に反対する保守派の蜂起が相次いだ。

王妃ソラヤ・タルズィー(英語版)は近代化のひとつとして家庭内での女性の地位向上を図ったが、アフガニスタンの歴史上初めて登場した女性の統治者に対して、保守派の激しい反対があった。

タジク人の指導者ハビーブッラー・カラカーニー(英語版)は、イギリスから資金と武器の支援を受けてカーブルを占領し、アマーヌッラー政権を打倒した(アマーヌッラー・ハーンの改革と内戦(ペルシア語版、ノルウェー語版、英語版))。

1929年、バーラクザイ王家の分家筋にあたるムハンマド・ナーディル・シャーが混乱を収めて、国王(アミール)に就任。

1931年に制定した新憲法の第一条でスンナ派ハナフィー学派国教に定めた。この条文が国内少数派のシーア派に対する反ハザーラ人政策の法的根拠となったことで恨みを買い、1933年11月8日に暗殺された。同日、息子のザーヒル・シャーが即位した。
第二次世界大戦

1939年9月に開戦した第二次世界大戦では、1941年10月にイギリスとソビエト連邦両国はナチス・ドイツイタリアなど枢軸国外交官民間人国外退去を要求した。これに対しアフガニスタン政府は、枢軸国のみならず交戦中の全ての国の外交官以外の民間人に国外退去を命じた。

このように、ザーヒル・シャー国王の統治下で、英領インドとソ連、中華民国に挟まれた中央アジアにおける緩衝国家として、日本やドイツ、イタリアや満洲国などからなる枢軸国、イギリスやアメリカ、ソ連と中華民国などからなる連合国の、どちらにもつかない中立国として1945年9月の終戦まで機能していた。
冷戦
パシュトゥーニスタン独立運動ザーヒル・シャー1963年

1947年にイギリスのインド統治が終了すると、バルチスタン地方は「もともとインドの一部ではない」ためインドやパキスタンには参加しなかった。イギリスやパキスタンもカラート藩王国(英語版)の独立を認めたうえで、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索し、1952年にバルチスタン藩王国連合(英語版)として独立させた。

しかし、その後のパキスタンからの軍事的圧迫(バルチスタン紛争(英語版))に抗すことができず藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合された。その後もしばらく内政自治は続いていたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられ、バローチスターン州とされた。

パキスタンがバルチスタンのみならずアフガニスタンも併合しようとしたため、国王ザーヒル・シャーは逆にパキスタン領(連邦直轄部族地域ワズィーリスターン)内のパシュトゥーン人を支援して「パシュトゥーニスタン独立運動(英語版)」を起こし牽制した。

ザーヒル・シャーは、1960年代には立憲君主制を導入して民主化路線を推進し、日本やイギリス、ソ連などからの資本の導入や輸入品の導入を推進した。
王政廃止と社会主義政権の樹立首都カーブルに展開するソ連の空挺兵チャールズ・ウィルソンムジャーヒディーン

1973年のクーデターでアフガニスタンは共和制となり、1978年、2度目のクーデターにより初めて社会主義国家となった。1980年代には社会主義政権とそれを支援するソビエト連邦軍と、ムジャーヒディーンの反乱軍とのアフガニスタン紛争 (1978年-1989年)が勃発した。

1973年、ザーヒル・シャーがイタリアでの病気療養のため、国を離れていた隙を狙い、旧バーラクザイ王族のムハンマド・ダーウードがクーデターを起こし王政を廃止、共和制を宣言して大統領に就任、アフガニスタン共和国を建国した。ダーウードはアフガン社会の近代化と軍事近代化を目指し、ソ連に接近してイスラム主義者たちを弾圧する。このときパキスタンに脱出したヘクマティヤールはヒズベ・イスラーミー(英語版)(ヘクマティヤール派)を結成し、イスラム主義のラッバーニーらはジャマーアテ・イスラーミー(ペルシア語版、ロシア語版、英語版)(イスラム協会、ラッバーニー派)を結成した。

1978年4月、アフガニスタン人民民主党(PDPA)主導による軍事クーデター「四月革命」が発生し、ダーウードおよび一族が処刑される。人民民主党による社会主義政権が樹立され、国名をアフガニスタン民主共和国に変更、ヌール・ムハンマド・タラキーが初代革命評議会議長兼大統領兼首相に就任し世俗化を推し進めた。


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