アフガニスタン紛争_(2001年-2021年)
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一方で政権の座から追い出されたターリバーンはオマル師によって再編成され、2003年から多国籍軍とその傀儡とみなすアフガニスタン政府に対する反乱を開始した[42][43]。ターリバーン等の反政府勢力は、地方でのゲリラ的な襲撃や待ち伏せ、都市部での標的に対する自爆攻撃、連合軍に対する裏切り者の殺害など、非対称戦争を繰り広げた。ターリバーンは次第にアフガニスタン南部と東部の農村地域で影響力を取り戻し、ISAFは村を「クリア&ホールド」するための対反乱作戦に兵力を増強して対応した[44][45]。2007年から2009年にかけて、暴力行為は拡大した[46]。2009年には兵力が急増し、2011年まで増加し続け、ISAFと米国の指揮下で約14万人の外国軍がアフガニスタンで活動した[47]。2012年にNATO首脳は軍の撤退戦略を開始し、その後、米国は主要な戦闘活動を2014年12月に終了し、国内に残存兵力を残すことを発表した[48]。2014年12月28日、NATOはアフガニスタンにおけるISAFの戦闘活動を正式に終了し、安全保障上の全責任をアフガニスタン政府に正式に移管した。同日、ISAFの後継組織としてNATO主導のレゾリュート・サポート作戦が発足した。

ターリバーンに掌握される地域が徐々に増加する中、2020年2月29日、米国とターリバーン(アフガニスタン・イスラム首長国)はドーハで条件付和平協定に署名した[49]。ターリバーンが協定の条件に協力する限り、米軍は14カ月以内にアフガニスタンから撤退することが求められた[50]。この合意は、アフガニスタン政府抜きで米国政府とタリバン間で直接行われた[51]。また、インド亜大陸のアルカーイダやISIL-Kに属する反政府勢力が、国内の一部で活動を続けていた[52]。2021年4月、アメリカ合衆国大統領ジョー・バイデンが、同年9月11日までに駐留米軍を完全撤退させると発表[53]。すると、2021年5月からターリバーンは大攻勢を開始し、共和国軍は3か月ほどで各州都に点となって散らばるまで弱体化した。8月に入ると続々と各州の州都にターリバーンが入城し、15日までにパンジシール州を除くすべての州が陥落した。2021年8月15日、ターリバーンはアフガニスタン全土を支配下においたと宣言し、内務相代行が平和裏に権力の移行を進めると表明した[54][55]。30日に米軍は撤退を完了し、31日にバイデンも戦争終結を宣言した[56]。これをもって、米国史上最長の戦争は幕を閉じた。

全体として、この戦争では 46,319 人の民間人を含む約176,000 人が死亡した[57]。2001年のアメリカの侵攻とタリバン政権打倒の後、570万人以上の難民がアフガニスタンに帰還したが[58][59]、タリバンが2021年に権力の座に戻ったとき、260万人のアフガニスタン人がまだ難民であり、さらに400 万人が国内避難民であった[60]黒:ターリバーンの支配地域
赤:反ターリバーン派の支配地域
黄:紛争地帯または帰属不明の地域
前史2001年時点のアフガニスタンの勢力地図。赤の部分が北部同盟の支配下。ターリバーンに破壊され消滅したバーミヤン大仏「アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)」、「アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)」、および「ターリバーン」も参照

1978年共産政権の成立にともない、全土でムジャーヒディーンと呼ばれる武装勢力が蜂起した。これを受けて1979年にはソビエト連邦軍事介入を行ったが、東側社会以外の支援を受けたムジャーヒディーンを駆逐することはできず、1989年ソ連軍は撤退した。

しかしソ連軍の撤退以降はムジャーヒディーン同士が内戦を起こし、軍閥を形成して戦闘が続いた。1994年頃からパキスタン軍の支援を受けたパシュトゥーン人の武装勢力であるターリバーンが勢力を拡張し、国土の大半を制圧した。しかし、ターリバーン政権はイスラム原理主義的政権であり、同様に原理主義的思想を持つウサーマ・ビン=ラーディンアル・カーイダを国内に保護し、テロリスト訓練キャンプを設置していた。


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