アフガニスタン紛争_(2001年-2021年)
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結果として、一時的には米英軍北部同盟が勝利し、アフガニスタンのターリバーン政権は崩壊して降伏[21]、また、アメリカ同時多発テロ事件を起こした被疑者行方不明となっていたアルカーイダのウサーマ・ビン・ラーディンはその後米軍により発見され、殺害された[22]
また、ターリバーン政権崩壊後の同国では、ボン合意に基づき国連主導での国づくりや復興民主化が行われ、暫定政権から新政府が成立した[23]

しかしその後、同国の治安は極端に悪化し[24]、ターリバーンによる攻撃が続いたため、アメリカとターリバーンの和平合意であるドーハ合意が締結され[25]、米軍は撤退[26]。その後ターリバーンは大攻勢をかけ、首都カーブル陥落させ、ガニー政権は崩壊。ターリバーンが政権を掌握した[27]事で終結した。

この紛争は、ベトナム戦争(1955年 - 1975年)を約5か月上回り、米国軍事史上最長の戦争となった[28]
概要
要約

反米テロを繰り返すアルカーイダの活動拠点の破壊と、アルカーイダの庇護者とみなされたターリバーン政権の転覆を試みる米国と同盟国がアフガニスタンに侵攻したことで始まった。当初の目的が達成された後、NATO加盟国を含む40カ国以上の連合国は、国際治安支援部隊(ISAF)と呼ばれる安全保障ミッションを同国に編成し、そのうちの一部はアフガニスタン政府と同盟して戦闘に参加した[29]。紛争は主に多国籍軍と共和国軍が旧支配勢力となったターリバーンと戦うもので[30]、ISAF/RSの兵士や人員の大半はアメリカ人である[29]。この紛争のコードネームは、米国では「不朽の自由作戦」(2001年?14年)、「自由の番人作戦」(2015年?2021年)と呼ばれている[31][32]傀儡政権樹立後もタリバンの反乱は続き[33]、多国籍軍は一般市民にも危害を加えたことで協力を得られなかった[34]。20年と数百兆円を費やした後[35]、最終的に米軍を筆頭に多国籍軍が撤退を開始すると、ターリバーンは急速に勢力を回復して再び政権を奪還した。
経緯

2001年の9.11同時多発テロ発生後、米国大統領のジョージ・W・ブッシュは、当時アフガニスタンの支配勢力であったターリバーンに、オサマ・ビンラディンの引き渡しを要求した[36]。ターリバーン政権の副首相アブドゥル・カビールはこれに対し、9.11同時多発テロがオサマ・ビンラディンによるものであるという証拠を求め、事実であれば第三国に出国させるとの返答をした[37]。ブッシュはカビール副首相の提案を拒否し「不朽の自由作戦」の開始を指示した[38]

2001年末までにターリバーンとアルカーイダは、米軍と北部同盟軍によって国内でほぼ壊滅したとみられ、ボン合意では新たなアフガン暫定当局(主に北部同盟)がハミド・カルザイをアフガン暫定行政長官に選出した。国連安全保障理事会は、新政権がカーブルを確保することを支援するために国際治安支援部隊(ISAF)を設立した。また、ターリバーン政権の崩壊に伴い、全国的な復興が図られた(国連アフガニスタン支援ミッション)[39][40][41]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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