アフガニスタン紛争_(1989年-2001年)
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10,000 (1989)

人民民主党政府の管理下にある部隊:

約 160,000 (1991)、準軍事組織及びKHAD含む

民兵:最大 170,000 (1991)不明

1989年

2月、ムジャーヒディーン各派はペシャーワルシブガトゥッラー・ムジャッディディーを暫定国家元首に指名し、人民民主党政府の後継政府作りに取りかかった。暫定政府は人民民主党の支配するジャラーラーバードを首都とし、首相にアブドゥル・ラスル・サイヤフ、外相としてグルブッディーン・ヘクマティヤールを据えた。この政府にはパキスタンの支持があった。

この当時の主要なムジャーヒディーン各派には以下のようなものがある。

ブルハーヌッディーン・ラッバーニーが率い、軍事司令官アフマド・シャー・マスードイスマーイール・ハーンが所属するタジク人主体の「イスラム協会(英語版)」

ヘクマティヤール率いるパシュトゥーン人主体の「イスラム党ヘクマティヤール派」

ハザーラ人主体のシーア派勢力「イスラム統一党」

彼らは反政府では一致していたが、決して一枚岩の団結を持っていたわけではなかった。また、ヘクマティヤール派は他の武装勢力に対して攻撃を仕掛けることもあった。1976年のマスード逮捕にもヘクマティヤールは関わったとされる[1]。しかし、ヘクマティヤール派はパキスタン軍統合情報局( en:Inter-Services Intelligence、略称ISI)から優先的に資金供与されており[2]、サウジアラビアからも資金援助を得ていた[3]
ジャラーラーバードの戦い

ソ連軍の撤退後の1989年3月?7月、ムジャーヒディーン各派は人民民主党政府の拠点ジャラーラーバードに総攻撃を行った。作戦を後押ししたのはパキスタン首相ベーナズィール・ブットーと、アメリカの駐パキスタン大使ロバート・オークリー(en:Robert B. Oakley)であった。

連日の猛攻にもかかわらずムジャーヒディーン側は敗北し1万人が戦死したといわれる。敗因はムジャーヒディーン各派の間で意思の疎通がとれておらず、統一した指揮系統ができていなかったことがあげられる。これに対しソ連流の訓練を受けた政府軍は善戦しムジャーヒディーン側を敗退させた。またソ連も空輸により政府軍を支援した。

政府側は勝利したが、皮肉にも政府内部は不安定となり、ハルク派とパルチャム派の派閥争いが激化する結果となった。7月18日と12月2日には将校を含む人々のクーデター未遂事件が発生している。
1990年

3月6日、人民民主党政府のシャフナワーズ・タナイ国防相は、イスラム党のヘクマティヤールと協力し、政府打倒のためのクーデターを起こした。しかしタナイは軍の支持を完全に集めることは出来ず、クーデターは失敗した。この時、タナイ派の鎮圧に当たったのがラシッド・ドスタム将軍率いる第53歩兵師団であった。第53歩兵師団はドスタムの資金によって運営されたウズベク人中心の部隊であり、ドスタムは一個の武装勢力でもあった。

1990年頃から人民民主党政府の主要援助国であるソ連の経済が悪化し、人民民主党政府の経済状態も悪化した。
ホースト攻囲戦

1991年3月11日、ムジャーヒディーン各派はアフガニスタン東部の人民民主党政府の拠点ホースト市を攻略した。攻撃は、ジャラルッディン・ハッカニ率いる国家司令官シュラ(NCS)と、グルブッディーン・ヘクマティヤールやアブドゥル・ラスル・サヤフを含むムジャーヒディーン7派の連合によって行われた。ムジャーヒディーンがここで成功した理由の1つは、ソ連軍の撤退後、ホースト市で孤立した政府軍に物資を空輸することが非常に困難になったためである。
1991年

1991年8月、ソ連8月クーデターの後実権を握ったロシア連邦大統領ボリス・エリツィンは人民民主党政府に対する直接援助を削減すると発表した。このため空軍は戦闘機を飛ばすことも出来なくなり、兵士の脱走率も前年から60%増加した。また、国連の仲介によるムジャーヒディーンの軍事指導者アフマド・シャー・マスードとナジーブッラーの和平会談も失敗し、政府はますます窮地に追い込まれた。

1991年12月25日にはソ連が解体され、人民民主党はイデオロギー面での後ろ盾を失った。
1992年
人民民主党政府の崩壊

3月18日、ナジーブッラーは大統領を辞任し、暫定政権に移ることを発表した。しかし人民民主党政府が統制力を失ったために、カーブルでは混乱が起きた。4月16日、ナジーブッラーはインドへ亡命しようとしたが、ドスタムの兵によって逮捕され、国連の建物に軟禁されることになった。政府の崩壊を知ったムジャーヒディーン各派はカーブルに殺到し、首都は混乱状態に陥った。国連の報告によると、この間の混乱で1800人の市民が死亡し、50万人が難民となった。
アフガニスタン・イスラム国成立

4月28日、ムジャッディディーが暫定大統領となり、新政府作りがようやく始まった。6月28日、イスラム協会のラッバーニーが大統領に選出され、「アフガニスタン・イスラム国」が正式に発足した。

しかしヘクマティヤール派などの武装勢力はイスラム協会主導の政府作りに反発し、カーブルは各派の分割統治下に置かれた。
アフガニスタン内戦(1992?1996)詳細は「アフガニスタン内戦 (1992年-1996年)(英語版)」を参照

アフガニスタン内戦 (1992?1996)
アフガニスタン紛争

赤:イスラム協会(英語版)→北部同盟
青:イスラム民族運動(ジュンビッシュ)
濃緑:アフガニスタン・イスラム統一党(シーア派)
黄緑:ターリバーン

時1992年4月28日? 1996年9月27日
場所アフガニスタン
結果

ターリバーン の勝利

アフガニスタン・イスラム国の崩壊

ターリバーンはカブールとアフガニスタンの大部分を支配し、アフガニスタン・イスラム首長国を建国。

数千人の民間人が殺害され、数百万人の難民が発生した。カブールは甚大な被害を受けた。

内戦継続(1996?2001)


衝突した勢力

アフガニスタン・イスラム国

イスラム協会(英語版)

北部監督評議会(英語版)

イスラム党ハーリス派(英語版) (-1992年)

 アフガニスタン解放のためのイスラム連合(英語版)

 イスラム革命運動

アフガニスタン国民戦線(英語版)

アフガニスタン・イスラム運動(英語版)

支援:
サウジアラビア

アフガニスタン・イスラム統一党 (-1992年12月)
支援:
イラン イスラム民族運動 (-1994年)
支援:'
ウズベキスタン

イスラム党グルブッディーン派(英語版) (-1994年)
支援:
パキスタン (-1994年)

アフガニスタン・イスラム統一党 (1992年12月-)
支援:
イラン

イスラム民族運動 (1994年1月?4月)
支援:
ウズベキスタン カンダハールの軍閥

ターリバーン (1994年)


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