アフガニスタン共和国(アフガニスタンきょうわこく、ダリー語: ?????? ?????????, J?mh?ri Af??nist?n、パシュトー語: ? ????????? ???????, D? Af??nist?n Jumh?riyat)は、アフガニスタン史上初の共和国であり、ムハンマド・ダーウード・ハーンがクーデターでアフガニスタン国王ザーヒル・シャーを廃位して建国した。ダーウードは進歩主義で知られ、ソビエト連邦やアメリカ合衆国から援助を受けて国を現代化しようとした[1]。
1978年、四月革命とよばれる軍事クーデターが共産主義者のアフガニスタン人民民主党によって起こされ、ダーウードは一家もろとも殺害された。「ダーウード共和国」はソ連と同盟したアフガニスタン民主共和国に取って代わられたのであった[2]。
歴史
建国詳細は「1973年アフガニスタン政変」を参照
1973年7月、アフガニスタン最後の国王ザーヒル・シャーがイタリアで眼科手術と腰痛の治療を受けている最中、王族で元首相のムハンマド・ダーウード・ハーンがクーデターを起こして共和国を建国した。ダーウードは10年前の1963年にザーヒル・シャーによって首相の辞任を余儀なくされていた[3]。ザーヒル・シャーは全面内戦を避けて退位した[3]。 権力を奪取したダーウードは自身の政党であるアフガニスタン国民革命党
一党統治
また1973年には元首相ムハンマド・ハーシム・マイワンドワール(英語版)が政変を計画していると疑われたが、計画が旧王制に対するものか、新共和制に対するものかは不明である。いずれにせよ、マイワンドワールは逮捕された後、裁判の前に死亡した。獄中で自殺したとされたが、拷問で死亡したと広く信じられた[2]。
共産主義の勃興「アフガニスタン人民民主党」も参照
ダーウードが1973年に共和国を建国した後、アフガニスタン人民民主党は入閣した[4]。1976年、ダーウードは7年経済計画を立てた。彼はインドとの軍事訓練プログラムをはじめ、パフラヴィー朝イランとも経済発展に向けて話し合いを始めた。さらに石油で潤っていたサウジアラビア、イラク、クウェートなど中東諸国に財政援助を求めた[2]。
しかし、ダーウードの大統領期ではソビエト連邦との関係が悪化した。ダーウードが西側諸国との関係を改善し、キューバの非同盟運動参加を批判、ソ連の軍事と経済顧問を追放したことでソ連はダーウードを危険人物とみたのであった。