アフガニスタン・イスラム共和国
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アフガニスタン・イスラム共和国(アフガニスタン・イスラムきょうわこく、ダリー語: ?????? ?????? ?????????‎、パシュトー語: ? ????????? ?????? ???????‎、英語: Islamic Republic of Afghanistan)は、かつてアフガニスタンに存在した共和制国家

2021年までの正式国名であったが、この国号を使用した政府は同年8月15日ターリバーンの攻勢によって崩壊した。同年8月19日、ターリバーンのスポークスマンザビフラ・ムジャヒドTwitterで「アフガニスタン・イスラム首長国」(アフガニスタン・イスラムしゅちょうこく、パシュトー語: ? ????????? ?????? ?????‎、英語: Islamic Emirate of Afghanistan)が成立することを宣言した[1][2]
国名

公式の英語表記は、Islamic Republic of Afghanistan。通称Afghanistan。日本語の表記は、アフガニスタン・イスラム共和国。通称アフガニスタン漢字表記は阿富汗斯坦または亜富汗斯坦。
国旗

アフガニスタン・イスラム共和国の国旗は2002年1月に制定されたもの。中央の紋章にはコーランの冒頭の聖句(シャハーダ)である「アッラーフのほかに神はなし、ムハンマドはアッラーフの使徒なり」と書かれている。
政治国民議会2006年)詳細は「アフガニスタンの政治」および「アフガニスタンの憲法(英語版)」を参照

アフガニスタン・イスラム共和国は共和制大統領制を採用する立憲国家である。現行憲法2004年1月16日に公布されたもの。そのほかにもクルアーンやシャリーアを法の源泉とする規定があり、アフガニスタンはイスラム国家の色彩が強い。
国家元首詳細は「アフガニスタンの大統領」を参照

国家元首である大統領は国民による直接選挙で選出され、任期は5年。3選禁止。大統領は強力な指導権を憲法により保障されている。副大統領職あり。ムスリム以外は大統領になることができない。
行政

行政府たる内閣は大統領が任命するが、議会の承認が必要。当初首相職は設置されていなかった[注釈 1]。しかし2014年のアフガニスタン大統領選挙において混乱が続いたため、首相格として行政長官が設けられた[4]
腐敗問題

BBCNHKの報道によると、カルザイ政権発足以降政府高官や公務員による汚職が急増している。アフガン政府の腐敗にアフガン国民が失望し、そのためアフガン国民は政府ではなくターリバーンを頼るようになり、ターリバーンが復活する一因となったという[5]
立法

立法府二院制国民議会で、憲法により、国家の最高立法機関と規定されている。国民議会は下院に相当する人民議会(ウォレシ・ジルガ)と、上院に相当する長老議会(メシュラノ・ジルガ)で構成される。人民議会は249議席以下と規定され、議員は国民の直接選挙で選出される。任期は5年。長老議会は定数102議席で、5年任期議員(大統領の任命)、4年任期議員(各州議会の選出)、3年任期議員(各郡議会の選出)が3分の1ずつを占める。

国民議会とは別に、国家主権安全保障憲法改正反乱の鎮圧、甚大な自然災害への対処など、国家の最重要事項に関しては、議会制度が成立する前からアフガニスタンに存在してきた伝統的な国家意思決定機関である国民大会議(ロヤ・ジルガ)が最高機関として機能する。非常設であり、国民議会議員、州議会議長、郡議会議長で構成される。閣僚と最高裁判所長官および最高裁判所裁判官はロヤ・ジルガに参加できるが、投票権はない。

憲法により複数政党制が認められているが、アメリカやそれに従属するカルザイ政権による制限があり、また政党政治が根付いていないアフガニスタンでは、政党の活動は低調である。それでも比較的有力なものとして、かつてアフマド・シャー・マスードが率い、現在はブルハーヌッディーン・ラッバーニー元大統領の指導するイスラム協会(英語版)(タジク人中心。北部同盟)、アブドゥルラシード・ドーストム率いるウズベク人勢力のイスラム民族運動ハザーラ人主体のイスラム統一党(英語版)がある。また、これらの政党は政党連合統一国民戦線(単に国民戦線とも)を結成し、無党派のカルザイ政権に対する野党として活動している。アフガニスタンの主要民族であるパシュトゥーン人による旧政権ターリバーンヘクマティヤール派(en:Hezb-e-Islami Gulbuddin)などの反政府活動も存在し、南部の一部を実効支配している。

アフガニスタン人民民主党 - 社会主義政権時代の執権党。

北部同盟 - 旧ムジャーヒディーンによる反ターリバーン同盟。現在は統一国民戦線に移行。

司法

司法府の最高機関は最高裁判所で、その下に高等裁判所などが存在する。三審制
人権問題

アフガニスタン王国時代の1964年に制定された憲法では男女平等が謳われ、その後1970年代の社会主義政権時代はよりいっそうの世俗化を推し進め、女性は洋服を着て教育を受けており、都市部ではヒジャブスカーフを被る人も少なかった。1978年には医者の4割が女性、カーブル大学の講師の60%が女性であった。しかし、農村部の世俗化は進まなかったことと、その後の社会主義政権の崩壊と共にムジャヒディーンの勝利を経て1990年代にイスラム主義に回帰。純然たるイスラム国家であったターリバーン政権時代には女性の人権が著しく制限された。ターリバーン政権が崩壊したあと、カルザイ政権下でアフガニスタンにおける世俗化は一定程度進んだとされるが、2018年時点でもいまだに女性の識字率は3割未満である。しかし、現在でもアフガニスタンはイスラーム法およびその強い影響下にある世俗法に基づく統治が行われ、イスラム国家としての色彩が強い。

そのため、信条の自由などが聖職者の定義するところのイスラーム法に反するものとされ、シャリーアに基づく背教罪や冒涜罪によって罪となることがある。

欧州での生活中にキリスト教改宗した男性が、これを理由に死刑を宣告された。これに対しては西側世界からの批判が起こり、最終的に死刑判決は撤回されたが、男性は亡命を余儀なくされた[6]。また、女性の権利について、「クルアーンを根拠に女性差別を擁護する人々は預言者ムハンマドの見解を歪曲している」という趣旨の文書を読み、問題提起をしようとした学生に対し、宗教法廷により「冒涜」として死刑が宣告された[7]。これに対しても西側世界は非難しているが、カルザイ政権も今回はムスリム保守層の国民から圧力を受け態度を硬化させており、上院では死刑判決を支持する決議が採択された。ターリバーンにより日常的に行われている公開処刑

アフガニスタンの地方では部族の伝統が根強く、たとえば、姦通を犯した女性がその家族の手で処刑される、いわゆる「名誉殺人」も行われているという[8]。2014年2月には被告の家族一員の女性だけでなく、女性の弁護士、女医、女の子供など、女性に区分される人々が裁判の証人として出廷することも禁止する法改正が行われようとしていると報じられた[9][10]


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