アパルトヘイト
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1987年、国際社会がアパルトヘイトに反対して、文化交流を禁止し、経済制裁に動くなかで、日本は逆に、南アフリカの最大の貿易相手国(ドルベースの貿易額基準)となり、翌1988年2月5日国連反アパルトヘイト特別委員会のガルバ委員長はこれに遺憾の意を表明した(ガルバ声明)[注 14]。こうした批判を受け、ピーター・ウィレム・ボータ政権は白人・インド人・カラードによる人種別三院制議会1984年に開設した。また、雑婚禁止法と背徳法、分離施設法を1985年に廃止、パス法を1986年に廃止するなどいくらかの改革をおこなったが、運動はまったく沈静化せず、国外からの批判はさらに厳しくなった。
マンデラ釈放から完全撤廃

これらを受け、1989年9月に大統領に就任したフレデリック・ウィレム・デクラークはこれまでの政府(国民党)の方針を転換し、撤廃に向けての改革を進展させた。その政策方針により、1990年2月、ANCやPAC、南ア共産党を合法化し、ネルソン・マンデラを釈放した。1991年2月には国会開会演説でアパルトヘイト政策の廃止を宣言し、6月には人種登録法、原住民土地法、集団地域法が廃止され、アパルトヘイト体制を支えてきた根幹法の最後の法律が廃止された。しかし「選挙法」「教育および訓練法」など22のアパルトヘイト法と数百の人種差別的条例がまだ残っていた。その後南アフリカ社会は体制移行期の危機的な混乱を何度も経験した。この混乱は1991年から1994年4月の総選挙実施まで3年近く続き、多くの死者を出した。

アパルトヘイト廃止後の南アフリカ共和国のことを話し合うために全18政党・組織が参加した民主南アフリカ会議(CODESA(コデサ))が1991年12月と1992年5月に開催された。しかし、交渉中にANC系組織とインカタ自由党 (IFP。ズールー族系)との武力衝突がトランスヴァール州(現ハウテン州など)、ナタール州(現クワズール・ナタール州)で頻発し、多くの死傷者が出た。そのためにしばしば交渉は中断、延期された。1993年4月には白人極右[24]の指示によって1人のポーランド人移民が、当時ANCのナンバー3だったクリス・ハニ(英語版)を殺害した。また、一部のホームランドが独立の維持を望み統合に反対する動きを起こし、ボプタツワナ政府などはアパルトヘイト維持を掲げる白人右翼アフリカーナー抵抗運動(AWB)と連携して抵抗したものの、ボプタツワナ軍の反乱によってボプタツワナ政府は崩壊し、アフリカーナー抵抗運動の党首だったコンスタンド・フィリューン(英語版)は穏健派を率いて新党「自由戦線(英語版)」を設立し、選挙に参加した。1993年4月に26政党・組織が参加した多党交渉フォーラムで、選挙までの政体として全政党・組織が参加した暫定政府を同年12月に発足させることに決まり、同時に暫定憲法も制定した。最後まで抵抗していたインカタ自由党も選挙実施数日前に選挙参加を決め、すべての有力勢力が全人種選挙へと参加することとなった。

1994年4月にようやく全人種が参加する選挙が行われ、5月にネルソン・マンデラが大統領となり新政権が樹立された。得票率は、アフリカ民族会議(ANC)62.6%、国民党20.4%、インカタ自由党(IFP)10.5%、その他という結果である。アフリカ民族会議は黒人票の90%を獲得したと推定され圧倒的な強さを見せたが、単独で憲法を制定できる2/3には届かなかった。マンデラ大統領就任により、アパルトヘイトはこの1994年に完全に消滅した。
経済制裁の解除

1991年のデクラーク大統領によるアパルトヘイト法撤廃方針を受けて欧州共同体(EC、のち欧州連合・EU)、アメリカ日本は次々と経済制裁を解除していった。しかし当時、ANCなど解放組織は「経済制裁の解除は時期尚早」と訴えた。経済制裁を主導した国連が総会において経済制裁撤廃決議をしたのは1993年10月になってからである。

当時の世界経済の背景には、当時冷戦下における西側諸国は、南アフリカ共和国がレアメタルの独占的産出国であり、南アフリカ共和国からこれら資源を輸入しなくては、敵国ソ連から輸入せざるを得ない状況であった。それ故にアパルトヘイト政策を非難する経済制裁を発することが出来ず、南アフリカ政府はアパルトヘイト政策を継続できた。ところが冷戦終結により旧東側諸国からのレアメタルの資源供給が容易になり、南アフリカ共和国の国際社会での立場が弱まり、欧米などから経済制裁を受けたことがアパルトヘイト撤廃に繋がっていった。

1998年にはローマ会議において、国際刑事裁判所ローマ規程が採択され、署名期限までに139カ国により署名が行われた。国際刑事裁判所ローマ規程第7条(j)では、アパルトヘイトは、「アパルトヘイト犯罪」として、「人道に対する罪」として規定された[注 15]



廃止後の国内・格差拡大と治安悪化

1994年に大統領に就任したマンデラ(1994年5月10日 ? 1999年6月14日)は民族和解・協調を呼びかけ、アパルトヘイト体制下での白人・黒人との対立や格差の是正、黒人間の対立の解消、経済制裁による経済不況からの回復に努めた。また、ツツ主教を委員長とする真実和解委員会を発足させ、人権蹂躙を行ったと指摘された人物・団体は刑事訴追を行った。経済政策として、公共事業を通じて失業問題を解消させ、土地改革によって不平等な土地配分を解決し、5年間に毎年30万戸以上を建設することで住宅問題の解決を図り、上下水道などの衛生施設の完備をし、2000年までに250万世帯を電化するといった計画を発表した。しかし、実施機構整備の遅れ、財源不足、人材不足から達成するに至らず、特に黒人への富の再分配の実施は遅れ、失業率は増大し、社会犯罪は激増した。このことが先進諸国からの投資や、企業進出を妨げる要因となった。このような状況から、黒人の新政権への不満が高まることになってしまった。

その後、ターボ・ムベキが新大統領に就任した後も状況は変わらず、失業率は3割を超え、またエイズが蔓延している。ムベキ政権下では黒人経済力増強政策がとられ、各企業に一定数の黒人登用を義務づけた。これにより黒人の中流層が勃興する一方で、アパルトヘイト時代に不十分な教育しか受けることのできなかった大多数の黒人は、この恩恵を受けることができず、貧富の差は拡大した。さらに、黒人経済力増強政策によって、有能な黒人のコストが跳ね上がり、企業の事業に対する負担となっている。アパルトヘイト政策から得た利益が、先進国の企業から還流する動きもない[26]
アーティスト

1985年、英米のロックソウルジャズ等のスター約50名による「アパルトヘイトに反対するアーティストたち」(en:Artists United Against Apartheid)の「サン・シティ」というシングルが発売された。


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