アパルトヘイト
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このように、他国は絶えずアパルトヘイトを非難し、1973年国際連合総会で採択された国際条約において人道に対する罪と糾弾したが、1980年代まではアパルトヘイトはこれらの非難の影響を受けることはなかった[23]オリンピックの南アフリカ選手団は、アパルトヘイトへの制裁措置として1960年ローマオリンピックを最後にオリンピックから締め出された。その後も、国際オリンピック委員会(IOC)からたびたび勧告を受けるも拒否し続けたため、1970年に除名処分を受けた。結果、人種隔離政策撤廃後の1991年にIOCから再承認を受け、1992年バルセロナオリンピックで復帰するまで参加は認められなかった。また1976年モントリオールオリンピックでは、ニュージーランドラグビーチームが南アフリカ遠征を行ったにもかかわらず大会参加を認められた事に抗議して、タンザニアをはじめアフリカ諸国22ヶ国によるボイコットが起こっている。
ビコとソウェト蜂起スティーヴ・ビコの死から一年経って集まった反アパルトヘイト活動家

反アパルトヘイト運動が再び活発化したのは、スティーヴ・ビコの登場からである。1968年、ナタール大学の学生だったビコは黒人だけの学生組織「南アフリカ学生機構」を結成し、黒人解放運動を開始した。ビコは黒人意識運動を提唱し、白人人種主義のすべての犠牲者への連帯をよびかけた。1973年にはビコの言論活動が禁止されたものの、ビコは各種プロジェクトを通じて実践をおこない、黒人意識運動は南アフリカ全土に広まっていった。この政治意識の高まりを背景に、1976年にはアフリカーンス語の教育強制に反発した黒人がソウェト蜂起を起こす。当時のバルタザール・フォルスター政権はこれを武力で弾圧したものの、この事件は国外のアパルトヘイトへの目をいよいよ厳しいものとし、また国内での抵抗運動はこれをきっかけに再び盛り上がっていった。
1980年代

1980年代に入ると、国内各地でますます反対運動が激化、また、国際的な経済制裁を受けた。1987年、国際社会がアパルトヘイトに反対して、文化交流を禁止し、経済制裁に動くなかで、日本は逆に、南アフリカの最大の貿易相手国(ドルベースの貿易額基準)となり、翌1988年2月5日国連反アパルトヘイト特別委員会のガルバ委員長はこれに遺憾の意を表明した(ガルバ声明)[注 14]。こうした批判を受け、ピーター・ウィレム・ボータ政権は白人・インド人・カラードによる人種別三院制議会1984年に開設した。また、雑婚禁止法と背徳法、分離施設法を1985年に廃止、パス法を1986年に廃止するなどいくらかの改革をおこなったが、運動はまったく沈静化せず、国外からの批判はさらに厳しくなった。
マンデラ釈放から完全撤廃

これらを受け、1989年9月に大統領に就任したフレデリック・ウィレム・デクラークはこれまでの政府(国民党)の方針を転換し、撤廃に向けての改革を進展させた。その政策方針により、1990年2月、ANCやPAC、南ア共産党を合法化し、ネルソン・マンデラを釈放した。1991年2月には国会開会演説でアパルトヘイト政策の廃止を宣言し、6月には人種登録法、原住民土地法、集団地域法が廃止され、アパルトヘイト体制を支えてきた根幹法の最後の法律が廃止された。しかし「選挙法」「教育および訓練法」など22のアパルトヘイト法と数百の人種差別的条例がまだ残っていた。その後南アフリカ社会は体制移行期の危機的な混乱を何度も経験した。この混乱は1991年から1994年4月の総選挙実施まで3年近く続き、多くの死者を出した。

アパルトヘイト廃止後の南アフリカ共和国のことを話し合うために全18政党・組織が参加した民主南アフリカ会議(CODESA(コデサ))が1991年12月と1992年5月に開催された。しかし、交渉中にANC系組織とインカタ自由党 (IFP。ズールー族系)との武力衝突がトランスヴァール州(現ハウテン州など)、ナタール州(現クワズール・ナタール州)で頻発し、多くの死傷者が出た。そのためにしばしば交渉は中断、延期された。1993年4月には白人極右[24]の指示によって1人のポーランド人移民が、当時ANCのナンバー3だったクリス・ハニ(英語版)を殺害した。また、一部のホームランドが独立の維持を望み統合に反対する動きを起こし、ボプタツワナ政府などはアパルトヘイト維持を掲げる白人右翼アフリカーナー抵抗運動(AWB)と連携して抵抗したものの、ボプタツワナ軍の反乱によってボプタツワナ政府は崩壊し、アフリカーナー抵抗運動の党首だったコンスタンド・フィリューン(英語版)は穏健派を率いて新党「自由戦線(英語版)」を設立し、選挙に参加した。1993年4月に26政党・組織が参加した多党交渉フォーラムで、選挙までの政体として全政党・組織が参加した暫定政府を同年12月に発足させることに決まり、同時に暫定憲法も制定した。最後まで抵抗していたインカタ自由党も選挙実施数日前に選挙参加を決め、すべての有力勢力が全人種選挙へと参加することとなった。

1994年4月にようやく全人種が参加する選挙が行われ、5月にネルソン・マンデラが大統領となり新政権が樹立された。得票率は、アフリカ民族会議(ANC)62.6%、国民党20.4%、インカタ自由党(IFP)10.5%、その他という結果である。アフリカ民族会議は黒人票の90%を獲得したと推定され圧倒的な強さを見せたが、単独で憲法を制定できる2/3には届かなかった。マンデラ大統領就任により、アパルトヘイトはこの1994年に完全に消滅した。
経済制裁の解除

1991年のデクラーク大統領によるアパルトヘイト法撤廃方針を受けて欧州共同体(EC、のち欧州連合・EU)、アメリカ日本は次々と経済制裁を解除していった。


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