アパルトヘイト
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しかし、これらの差別法を非白人に守らせるには膨大な警察、管理機構が必要であったため、政府予算の半分近くがアパルトヘイト維持のための関連支出となった[14]。これらは白人納税者にとっても負担であり黒人の熟練労働を禁じたことも経済成長のうえでマイナスになった。一方、安価な単純労働力としての地位しか与えられなくなった黒人の失業率は急速に増大し、さらに1960年代にそれまで黒人の大雇用先であった白人大農場の機械化が進んで多数の黒人労働者が解雇され、さらに彼らの流れ込んだホームランドで人口圧力により農業生産が急減するにいたって雇用状況はさらに悪化した。この膨大な失業者が、やがて黒人抵抗運動の火種となっていった。
歴史アパルトヘイト反対の広告が描かれたバスイギリスロンドン1989年アパルトヘイトについて議論するハル大学の学生(1978年)
1948年前

ボーア戦争以来、南アフリカの白人2大民族であるイギリス人とアフリカーナーオランダ系入植者の子孫)は激しく対立していた。支配層を形成するイギリス系に対しアフリカーナーの多くは経済的な弱者となり、「プア・ホワイト」と呼ばれる貧困層を形成していた。これら白人貧困層を救済し白人を保護することを目的[15]に、1910年の南アフリカ連邦成立以来、さまざまな人種差別的立法がおこなわれてきた。1911年には「鉱山労働法(英語版)」が制定され、人種により職種や賃金を制限し、熟練労働を白人のみに制限した[16]1913年「原住民土地法(英語版)」が制定され、アフリカ人の居留地を定め、居留地外のアフリカ人の土地取得や保有、貸借を禁じた。1926年には「産業調整法」が制定され、労使間の調停機構が設立され労働者の保護立法のさきがけとなるが、アフリカ人労働者は労働者の範囲からはずされた。このため、以後は白人の労働組合のみが労働者を代表することとなった[17]1927年には「背徳法」が成立し、異人種間の性交渉が禁じられた。

さらに、1924年に白人労働者の支持の元成立したジェームズ・ヘルツォーク政権は、鉱山労働以外の製造業にもカラーバー(人種割り当て)を拡大して、白人労働者とそれ以外の労働者の雇用比率を規定し、さらに白人労働者は非熟練労働者でもアフリカ人よりも高給を与えられるようにした[17]
1948年以降

しかし、第二次世界大戦中の好景気などを背景に黒人の発言力が増大し、当時の与党であるヤン・スマッツ率いる連合党がわずかに譲歩の姿勢を見せたことで、それに不満を持ち黒人封じ込めを訴えるダニエル・フランソワ・マラン率いる国民党が1948年に選挙に勝利し、アパルトヘイトが制度として確立されることとなった。

アパルトヘイトに対しては、対象人種だけでなく、イギリス系よりもアフリカーナが公職でははっきり優遇されていた[18]ため、主にイギリス系の白人の多くから反発があった。しかし、アパルトヘイトにより黒人を搾取することで白人両民族が経済成長を達成し、民族間対立が目に見えて緩和されてくるとイギリス系の多くも積極的に国民党とアパルトヘイトを支持するように変化していった。これに対し、一部のリベラル白人は、進歩連邦党を結成しヘレン・スズマンなどの議員を中心として反アパルトヘイト活動を継続した[19]

実業界は、アパルトヘイトに対しては微温的な対応に終始した。アパルトヘイトによって高価な白人労働力を使用せざるを得ず、経済制裁によって市場がかなり損なわれてはいるとはいえ、一方で黒人の単純労働力を安価に使用できるメリットは大きかった。また国民党はアフリカーナー労働者と農民を支持基盤とした政党であり、資本家はさほど党に対して力を持っているわけではなく、また経営者自身も白人であったためである。熟練労働者の確保が難しくなった工業界が改革をしばしば要求したが、アパルトヘイトの枠内からはみ出ることはなかった[20]。多国籍銀行は経済制裁が行われている最中にも融資を行なっていた[21]ほか、西ドイツBMWメルセデス・ベンツなどの自動車会社も、経済制裁を潜り抜ける形で自動車の生産を行っていた。
反対運動とシャープビル虐殺事件

代表的な反アパルトヘイト運動として、ネルソン・マンデラが所属していたアフリカ民族会議(ANC)や南アフリカ・インド人会議(SAIC)などがあげられる。1949年にはウォルター・シスルオリバー・タンボ、ネルソン・マンデラの3人がANCの執行部に選出され、以後の黒人解放運動の指導権を握った。1955年には、ANCやSAICなどによりクリップタウンで自由憲章が採択される。これは非人種的なものであり、黒人民族主義ではなく自由主義を基本においたもので、以後の反アパルトヘイト運動の旗印となった[22]。しかし、政府はそこに集まった群衆を解散させ、翌1956年には中心的な活動家を反逆罪で告訴した。また、自由憲章制定時に主導権を握れなかったアフリカ民族主義者はアフリカ民族会議から分党し、1959年にはパンアフリカニスト会議(英語版)(PAC)が結党された。

1960年にはパス法に反対する集会をPACが企画し、ANCも合流。そこに集まった群衆に軍が発砲し、シャープビル虐殺事件が勃発した。これにより、政府は両党を非合法化し、活動家を次々と逮捕していった。マンデラは1962年、シスルは1963年に逮捕され、ケープタウン沖のロベン島刑務所へと送られた。生き残った活動家は亡命し、テロ活動をおこなったものの、活動自体はやがて沈静化していった。
国際関係

国連総会は、1952年以降毎年非難決議を採択し続けた。


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