アパルトヘイト
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黒人の反対にも拘らず、トランスカイボプタツワナヴェンダシスカイの4地区は「独立」(1976年?1981年)させられるものの、国際的には独立国として承認されず、むしろ国際社会の非難を浴びることになった[13]。ホームランドは不毛の地であり、さらにその不毛の地に多くの黒人が押しこめられたため、土地の過使用によって環境が破壊され、ホームランド内で農業によって生計を立てることも難しくなった。そのため、ホームランド住民は労働力として南アフリカの都市部へ流出せざるを得なくなり、経済的に隷属が進んだ。また、ホームランドから家族で都市へと向かうことは許されず、黒人出稼ぎ労働者たちは家族をホームランドへと残し、ホステルと呼ばれる低料金の宿泊所で泊まりながら働くこととなった。さらに、名目上は独立国となったものの、各ホームランドの実権は白人、ひいては南アフリカ政府が握り、ホームランドが独自性を示す方策は限られていた。
集団地域法(英語版)
人種ごとに住む地域が決められた。特に黒人は産業地盤の乏しい限られた地域に押し込められ、白人社会では安価な労働力としかみなされなかった。この法によって大都市近郊で黒人が押し込められた地域はタウンシップ(英語版)とよばれた。ヨハネスブルグ近郊のソウェトが最も著名である。産業地区はすべて白人地区となり、黒人など非白人はその地域に住むことを許されず、タウンシップなどからの長く混みあう通勤を余儀なくされた。
強制移住
1960年代から1980年代にかけて、政府は上記2法によって定められた地域への非白人の移住政策を進め、これによって推定で350万人もの非白人がホームランドやタウンシップへと移住させられた。これらの強制移住において最も知られている事件は、1955年にヨハネスブルク近郊のソファイアタウンでおこなわれたものである。ソファイアタウンは1923年に黒人の土地購入が禁止される以前からの黒人地区であり、50000人が居住し活気にあふれた地区であった。しかし政府がこの地区を接収し、この地区は市の中心部から20km離れたメドウランズ(後のソウェトの一部)へと移住させられ、元のソファイアタウンはトリオンフと改名されて白人地区となった。このような差別的事態は全国で起こった。
小アパルトヘイト
隔離施設留保法
(英語版)
レストランホテル列車バス公園映画館、公衆トイレまで公共施設はすべて白人用と白人以外に区別された。バスは黒人用のバスと停留所、白人用のバスと停留所に別れ、病院も施設の整った白人用と不十分な施設しかない黒人用に分けられた。白人専用の公園などの場所に立ち入った黒人はすぐに逮捕された。
雑婚禁止法
人種の違う男女が結婚することを禁止された。(黒人と白人など。異人種との結婚(英語版))
背徳法
異なる人種の異性が恋愛関係になるだけで罰せられる法。
パス法
黒人に身分証明書の携帯を義務付けた法。有効なパスを持たないものは不法移民とされ、逮捕されホームランドなどへの強制送還が実施された。

その他、黒人の参政権を否定する「原住民代表法(英語版)」(1936年)や黒人の教育を低レベルなものへとどめてしまった「バントゥー教育法」(1953年)など、就職賃金教育医療宗教など、日常生活の隅々にわたる非白人を差別する政策が、無数の法と慣行で制度化されていた。しかし、これらの差別法を非白人に守らせるには膨大な警察、管理機構が必要であったため、政府予算の半分近くがアパルトヘイト維持のための関連支出となった[14]。これらは白人納税者にとっても負担であり黒人の熟練労働を禁じたことも経済成長のうえでマイナスになった。一方、安価な単純労働力としての地位しか与えられなくなった黒人の失業率は急速に増大し、さらに1960年代にそれまで黒人の大雇用先であった白人大農場の機械化が進んで多数の黒人労働者が解雇され、さらに彼らの流れ込んだホームランドで人口圧力により農業生産が急減するにいたって雇用状況はさらに悪化した。この膨大な失業者が、やがて黒人抵抗運動の火種となっていった。
歴史アパルトヘイト反対の広告が描かれたバスイギリスロンドン1989年アパルトヘイトについて議論するハル大学の学生(1978年)
1948年前

ボーア戦争以来、南アフリカの白人2大民族であるイギリス人とアフリカーナーオランダ系入植者の子孫)は激しく対立していた。支配層を形成するイギリス系に対しアフリカーナーの多くは経済的な弱者となり、「プア・ホワイト」と呼ばれる貧困層を形成していた。これら白人貧困層を救済し白人を保護することを目的[15]に、1910年の南アフリカ連邦成立以来、さまざまな人種差別的立法がおこなわれてきた。1911年には「鉱山労働法(英語版)」が制定され、人種により職種や賃金を制限し、熟練労働を白人のみに制限した[16]1913年「原住民土地法(英語版)」が制定され、アフリカ人の居留地を定め、居留地外のアフリカ人の土地取得や保有、貸借を禁じた。1926年には「産業調整法」が制定され、労使間の調停機構が設立され労働者の保護立法のさきがけとなるが、アフリカ人労働者は労働者の範囲からはずされた。このため、以後は白人の労働組合のみが労働者を代表することとなった[17]1927年には「背徳法」が成立し、異人種間の性交渉が禁じられた。

さらに、1924年に白人労働者の支持の元成立したジェームズ・ヘルツォーク政権は、鉱山労働以外の製造業にもカラーバー(人種割り当て)を拡大して、白人労働者とそれ以外の労働者の雇用比率を規定し、さらに白人労働者は非熟練労働者でもアフリカ人よりも高給を与えられるようにした[17]
1948年以降

しかし、第二次世界大戦中の好景気などを背景に黒人の発言力が増大し、当時の与党であるヤン・スマッツ率いる連合党がわずかに譲歩の姿勢を見せたことで、それに不満を持ち黒人封じ込めを訴えるダニエル・フランソワ・マラン率いる国民党が1948年に選挙に勝利し、アパルトヘイトが制度として確立されることとなった。

アパルトヘイトに対しては、対象人種だけでなく、イギリス系よりもアフリカーナが公職でははっきり優遇されていた[18]ため、主にイギリス系の白人の多くから反発があった。しかし、アパルトヘイトにより黒人を搾取することで白人両民族が経済成長を達成し、民族間対立が目に見えて緩和されてくるとイギリス系の多くも積極的に国民党とアパルトヘイトを支持するように変化していった。


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