アパルトヘイト
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このため、民主化後初の選挙である1994年の選挙においてカラードは、大部分が国民党へ投票した[10]
分離政策と細則

アパルトヘイトは、「大アパルトヘイト」と呼ばれる土地の大規模な分離政策と、「小アパルトヘイト」と呼ばれるその他細則によって構成されていた。小アパルトヘイトは背徳法や隔離施設留保法など、一般生活において目に付きやすい部分で導入され、ゆえに大きな批判を浴び[11]、小アパルトヘイトの多くが1980年代後半の改革により消滅、大アパルトヘイトは1990年代に撤回された[11]ホームランドの地図シスカイ(Ciskei)区域,アパルトヘイト政策により、南アフリカ共和国内につくられたアフリカ人自治地域のひとつ。
大アパルトヘイト
原住民土地法
(英語版)、バントゥー自治促進法(英語版)、バントゥー・ホームランド市民権法(英語版)、バントゥースタン(ホームランド)政策など
1971年に実施され、国土の13%にすぎない辺境不毛の地に設けられたホームランドといわれる「国」を10地区建設し、人口の大多数を占める黒人を居住させるもの。ホームランド10地区は種族別に分かれており、それぞれに自治権を与えて、最終的には独立国としようとするのであった。といっても、それは名目上であって、目的は黒人を他国の国民として扱うことで、彼らから南ア市民権参政権をなくし、経済的には白人に依存せざるを得ない黒人を外国籍の出稼ぎ労働者として扱おうとするものであった[12]。さらに、黒人を新独立国へと移住させることで、白人は多数派として、少数派であるカラード、インド系人と、「見かけ上は差別はない」が「実質は白人優位の」多人種社会の再構築をも目論んだのである。黒人の反対にも拘らず、トランスカイボプタツワナヴェンダシスカイの4地区は「独立」(1976年?1981年)させられるものの、国際的には独立国として承認されず、むしろ国際社会の非難を浴びることになった[13]。ホームランドは不毛の地であり、さらにその不毛の地に多くの黒人が押しこめられたため、土地の過使用によって環境が破壊され、ホームランド内で農業によって生計を立てることも難しくなった。そのため、ホームランド住民は労働力として南アフリカの都市部へ流出せざるを得なくなり、経済的に隷属が進んだ。また、ホームランドから家族で都市へと向かうことは許されず、黒人出稼ぎ労働者たちは家族をホームランドへと残し、ホステルと呼ばれる低料金の宿泊所で泊まりながら働くこととなった。さらに、名目上は独立国となったものの、各ホームランドの実権は白人、ひいては南アフリカ政府が握り、ホームランドが独自性を示す方策は限られていた。
集団地域法(英語版)
人種ごとに住む地域が決められた。特に黒人は産業地盤の乏しい限られた地域に押し込められ、白人社会では安価な労働力としかみなされなかった。この法によって大都市近郊で黒人が押し込められた地域はタウンシップ(英語版)とよばれた。ヨハネスブルグ近郊のソウェトが最も著名である。産業地区はすべて白人地区となり、黒人など非白人はその地域に住むことを許されず、タウンシップなどからの長く混みあう通勤を余儀なくされた。
強制移住
1960年代から1980年代にかけて、政府は上記2法によって定められた地域への非白人の移住政策を進め、これによって推定で350万人もの非白人がホームランドやタウンシップへと移住させられた。これらの強制移住において最も知られている事件は、1955年にヨハネスブルク近郊のソファイアタウンでおこなわれたものである。ソファイアタウンは1923年に黒人の土地購入が禁止される以前からの黒人地区であり、50000人が居住し活気にあふれた地区であった。しかし政府がこの地区を接収し、この地区は市の中心部から20km離れたメドウランズ(後のソウェトの一部)へと移住させられ、元のソファイアタウンはトリオンフと改名されて白人地区となった。このような差別的事態は全国で起こった。
小アパルトヘイト
隔離施設留保法
(英語版)
レストランホテル列車バス公園映画館、公衆トイレまで公共施設はすべて白人用と白人以外に区別された。バスは黒人用のバスと停留所、白人用のバスと停留所に別れ、病院も施設の整った白人用と不十分な施設しかない黒人用に分けられた。白人専用の公園などの場所に立ち入った黒人はすぐに逮捕された。
雑婚禁止法
人種の違う男女が結婚することを禁止された。(黒人と白人など。異人種との結婚(英語版))
背徳法
異なる人種の異性が恋愛関係になるだけで罰せられる法。
パス法
黒人に身分証明書の携帯を義務付けた法。有効なパスを持たないものは不法移民とされ、逮捕されホームランドなどへの強制送還が実施された。

その他、黒人の参政権を否定する「原住民代表法(英語版)」(1936年)や黒人の教育を低レベルなものへとどめてしまった「バントゥー教育法」(1953年)など、就職賃金教育医療宗教など、日常生活の隅々にわたる非白人を差別する政策が、無数の法と慣行で制度化されていた。しかし、これらの差別法を非白人に守らせるには膨大な警察、管理機構が必要であったため、政府予算の半分近くがアパルトヘイト維持のための関連支出となった[14]。これらは白人納税者にとっても負担であり黒人の熟練労働を禁じたことも経済成長のうえでマイナスになった。一方、安価な単純労働力としての地位しか与えられなくなった黒人の失業率は急速に増大し、さらに1960年代にそれまで黒人の大雇用先であった白人大農場の機械化が進んで多数の黒人労働者が解雇され、さらに彼らの流れ込んだホームランドで人口圧力により農業生産が急減するにいたって雇用状況はさらに悪化した。この膨大な失業者が、やがて黒人抵抗運動の火種となっていった。
歴史アパルトヘイト反対の広告が描かれたバスイギリスロンドン1989年アパルトヘイトについて議論するハル大学の学生(1978年)
1948年前

ボーア戦争以来、南アフリカの白人2大民族であるイギリス人とアフリカーナーオランダ系入植者の子孫)は激しく対立していた。支配層を形成するイギリス系に対しアフリカーナーの多くは経済的な弱者となり、「プア・ホワイト」と呼ばれる貧困層を形成していた。これら白人貧困層を救済し白人を保護することを目的[15]に、1910年の南アフリカ連邦成立以来、さまざまな人種差別的立法がおこなわれてきた。


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