アパルトヘイト
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差別される側の黒人は約2500万人、インド系住民約90万人に対して、白人は約500万人程度である(黒人の20%以下)[注 11]。さらに1959年に全面的なアパルトヘイト構想としてバントゥースタン計画が立案された。具体的には1959年制定の「バントゥー自治促進法(英語版)」により民族部族単位に自治区を設ける[注 12]政策が実施された。
教育分野

1953年に制定された「バントゥー教育法」により、黒人に対する教育はキリスト教会系のミッションスクールから国家の元に移管されたが、一人当たりの白人生徒の教育予算は、黒人生徒の10倍程度であったほか、黒人については義務教育ではなかった。

アパルトヘイト以前は、ウィットウォーターズラント大学やケープタウン大学、ナタール大学では白人と黒人は共学であり、黒人向けのフォートヘア大学も存在したが、1959年に可決された「大学教育拡張法(英語版)」によって白人と黒人の共学は禁止され、黒人は既存の大学に受け入れられなくなり、フォートヘア大学は全黒人向けからコサ人向けの大学に改組された[3]
治安・警察関連

アパルトヘイト体制の整備に伴い、一方的に搾取され不利益を押し付けられる黒人側から、アパルトヘイト政策の撤廃を求める政治運動を行う団体・個人が多数登場したが、これらを弾圧するために各種の治安関連法が制定された。

1950年に制定された「共産主義鎮圧法(英語版)」により南アフリカ共産党(英語版)が非合法化されたほか、1960年のシャープビル虐殺事件を契機に制定された「反社会的組織法(英語版)」によりアフリカ民族会議やパンアフリカニスト会議(英語版)が非合法化された。

また、1956年に制定された「暴動的集会法(英語版)」により、法務大臣が「公共の平穏を危うくする」と認定した場合には、公共の場所での集会を禁止することができるようになり、反アパルトヘイト集会を妨害・弾圧する口実に利用された。

特に1967年に制定された「テロリズム法」においては、警察が「テロリスト容疑者」や「テロリストに関する情報を持っていると警察が認めた人物」に対して、逮捕令状裁判無しで最長60日間拘留する権限が認められた[注 13]

上記の法律は、1982年に制定された「国内治安法(英語版)」に整理統合された。
人種分類

アパルトヘイトでは法律で人種を次の4通りに分けた。実際の人種とアパルトヘイトの指す人種とはやや違いがあり、例えば先住民であるコイコイ人や、アジア人であるマレー人のうち、その大多数を占め、古くからケープに住むケープマレーは、人種とは関係なくカラードの扱いを受けた。また、政府の人口統計においては白人は1民族として扱われ、黒人は各民族ごとに集計されたため、白人が最大民族として公表される仕組みとなっていた。

白人(1980年に470万人、人口の15%。イギリス系住民と、アフリカーナーオランダ系を中心とするアフリカーンス語を話す住民)。比率はアフリカーナー60%、イギリス系40%である。白人間でも出自によって区別があった)

アジア人(1980年に90万人、人口の3%。大部分が印僑で、事実上の中間支配層として扱われた。ナタール州付近に集住していた)

アジアにおいて唯一の先進国であった日本人は1961年以降、経済上の都合から名誉白人扱いとされていた[4]。ただし、白人専用のホテル・レストランなどの使用が認められたに過ぎず、基本的に一時滞在者としての扱いに限られ、永住権や不動産取得などは認められなかった。また、日本人が白人と性交渉をおこなった場合は背徳法が適用された[5]。日本は1980年代後半から最大の貿易相手国になる。また、国際的に孤立していた南アフリカと、反共主義という共通点から数少ない国交を持っていた中華民国台湾人も、名誉白人扱いであった[6]。台湾人については一時期、中華料理店を白人用に指定した際、中華料理店への入店に限って白人扱いとされたが、中華民国の経済発展を受け名誉白人扱いになったとされる[7]。また、イギリス香港からの華僑華人も名誉白人として扱われた[8][9]


カラード(1980年に280万人、人口の9%。白人と、サン人やコイコイ人など先住民族との混血を中心にした混成グループで、オランダやイギリスの植民地であったインドネシアマレーから奴隷として連れられてきた住民との混血も含まれる。また、混血でないコイコイ人やケープマレーも含む。主な使用言語はアフリカーンス語。ケープタウン周辺に集住しており、ケープ州の最大民族であった)

黒人(1980年に2300万人、人口の73%。ズールー人ソト人コーサ人、ンデベレ人、ツワナ人など、バントゥー系民族

最大勢力である黒人に対し、印僑やカラードといった人口規模が白人に及ばない人種は黒人に比べやや優遇され、白人・黒人間の緩衝地帯となると同時に白人による分断統治の対象となった。印僑やカラードには教育予算や医療施設も白人ほどではないが整備された。カラードの集住するケープ州においては、選挙権が剥奪される一方でカラードの優遇雇用法が施行され、とくに黒人流入の多くなった70年代後半以降にはカラードに経済的利益をもたらした。このため、民主化後初の選挙である1994年の選挙においてカラードは、大部分が国民党へ投票した[10]
分離政策と細則

アパルトヘイトは、「大アパルトヘイト」と呼ばれる土地の大規模な分離政策と、「小アパルトヘイト」と呼ばれるその他細則によって構成されていた。小アパルトヘイトは背徳法や隔離施設留保法など、一般生活において目に付きやすい部分で導入され、ゆえに大きな批判を浴び[11]、小アパルトヘイトの多くが1980年代後半の改革により消滅、大アパルトヘイトは1990年代に撤回された[11]


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