アバカス
[Wikipedia|▼Menu]
算盤は単に数を数えるだけでなく、加法減法乗法除法平方根立方根などを素早く計算する技法が発達している。そのような技法を教える学校が今も存在する。

中国の算盤はローマのアバカスとよく似ており、ローマ帝国と中国はシルクロードを通じて交易していたことから、どちらかがどちらかに影響を与えたと見られている。しかし明らかな証拠は見つかっておらず、手の指が5本であることが基本となっているので、偶然似たようなアバカスが両方で生まれたとする考え方もある。ローマのアバカスは「五を表す玉」を2つと、「一を表す珠」を4つ使うもので、現代の日本のそろばんに近い。また、構造的にローマ式の溝に珠を置くだけの方式よりも軸に珠を通す東洋式の方が計算が速いとみられる。

算盤のもう1つの起源と考えられるのが、中国の算木で、十進法で数を表すが桁のプレースホルダーとしての0の概念がなかった。中国にゼロの概念が伝えられたのはの時代と見られている。そのころ中国の商人がインド洋を航海してインド中東と直接接触し、ゼロの概念や小数点の概念をインド人商人や数学者から教えられ、中国に伝えたと見られている。
朝鮮

中国の算盤は、朝鮮には1400年ごろに伝わった[24]。朝鮮では、これを??(籌板 / 珠板、jupan)、??(数板、supan)、??(算板、sanpan)と呼ぶ[25]
日本

日本ではアバカスのことを「そろばん」と呼ぶ。
中国式算盤の普及
日本でも室町時代から江戸時代や明治時代まで一般的だった「上の珠が2個、下の珠が5個」方式のそろばん。写真は天保の頃に作られた播州そろばん

中国の算盤が日本に1600年より前に伝えられ、独自の改良が加えられた[26]

中国で生まれた「上の珠が2個、下の珠が5個」の算盤が、室町時代(1336年-1573年)末期に日本に伝わった[27] この中国方式のそろばんが、江戸時代に入って商業の発達とともに日本全国に普及した[27]。(「上の珠が2個、下の珠が5つ」の算盤は、やはり、学校で算数を学んだことがない人々でも、簡単に計算方法を理解できた。)
明治時代の「上1、下5」そろばんの登場
明治時代に登場した「上1、下5」方式のそろばん。数は減ったが、今も使い続けている人々がいる。

日本では明治時代に「上1、下5」(「五玉がひとつ、一玉が5つ」)の算盤が登場して、これは昭和30年代ころまで使われた[27][注釈 4]
1938年の「上1、下4」そろばんの登場
1938年に登場した「上1、下4」方式のそろばん。

昭和13年(1938年)に小学校教科書の改訂に伴って、現在日本で見かけられるような「上1、下4」(「五玉がひとつ、一玉が4つ」)のそろばんが誕生した[27]。(これが登場してから、それまでの「上1、下5」そろばんをレトロニムで「5つ珠そろばん」と呼び始めた。なお、「上1、下5」そろばんと「上1、下4」そろばんが共存していた時代がそれなりに長かった。[注釈 5]

1938年以降使われるようになった この「上1、下4」(「五玉がひとつ、一玉が4つ」)のそろばんは、各桁にあらかじめ置かれている数に応じて、操作のパターン(親指と人差し指の動作の組み合わせ)を複雑に変化させなければならないものである。このそろばんは、最初から複雑な指動作の組み合わせを(学校などで、上級者から)しっかりと教えてもらい、最初からしっかりと訓練を積む必要があるというデメリットがありはするが、(中国式のそろばんよりも)かなり高速に計算ができるというメリットがある。日本人は概して器用で真面目だったので、訓練に耐えてこれを使いこなし、高速に計算できるようになった。[注釈 6]

そろばんは何百年も日本で使われてきたにもかかわらず、1970年代なかばに電卓が普及した時には、多くの人々が「そろばんは時代遅れになった」と考えた[28]。だが、70年代半ばから使う人が減ったわけではなく、日商検定の受験者数のピークは1980年度で204万人で、その後に受験者数は減少していったが、2006年度以降増加に転じ、2012年度は約22万人までに増加。

小学校算数では今でもそろばんの使い方を教えており、主に暗算能力を高めるためといわれている。そろばんの視覚的イメージを思い浮かべることで、場合によってはより素早く暗算できるとされている。



アメリカ原住民インカキープインカで使われていた yupana

古代マヤ文明でnepohualtzintzinと呼ばれるアバカスが使われていたとする文献もある。メソアメリカのアバカスは二十進法5桁の体系を使っていた[29]。nepohualtzintzinという語はナワトル語から来ており、"Ne"(個人)、"pohual"または"pohualli"(勘定)、"tzintzin"(小さな同じような要素)という語の組合せである。したがって本来の意味は「何者かが小さな似たような要素群を数えること」である。カルメカク(Kalmekak)という学校で幼少期から天に捧げられた生徒である"temalpouhkeh"に教えられていた。しかし、nepohualtzintzinによる計算の素早さや正確さを目にした征服者がそれを悪魔的だと判断し、征服時の破壊によってその伝統を完全に失わせてしまった[要出典]。

その計算器具は二十進法に基づいていた[30]アステカでは二十進法が普通に使われていた。nepohualtzintzinはバーまたは中間の紐で2つの部分に分けられており、左側には1から4を表す4つの珠があり、右側にはそれぞれが5に相当する3つの珠がある。これで、各桁が1から19までの数を表し、1つ上の桁は読み取った値を20倍したものに相当する。

全体で13桁で1桁を7珠で表すので、全部で91個の珠がある。7と13、それらを掛け合わせた91という数は、様々な自然現象や天の運行を表す数字とされていた。例えば、91は季節(1年の4分の1)の日数、91の2倍の182はトウモロコシの栽培にかかる日数、91の3倍の273は妊娠期間、91の4倍の364は約1年(1.mw-parser-output .frac{white-space:nowrap}.mw-parser-output .frac .num,.mw-parser-output .frac .den{font-size:80%;line-height:0;vertical-align:super}.mw-parser-output .frac .den{vertical-align:sub}.mw-parser-output .sr-only{border:0;clip:rect(0,0,0,0);height:1px;margin:-1px;overflow:hidden;padding:0;position:absolute;width:1px}1⁄4日だけ短い)とされていた。nepohualtzintzinの計算できる範囲は天文学的数値から極小の量まで広範囲であり、現代のコンピュータに換算すれば10桁から18桁の浮動小数点数に匹敵した。

nepohualtzintzinを再発見したのはメキシコの技術者 David Esparza Hidalgo で[31]、メキシコ中を旅してその器具を描いた版画や絵画を発見し、金や翡翠や貝殻などを使っていくつか再現している[要出典]。オルメカ時代のものとされている古いnepohualtzintzinも発見されている。

ユカタン半島では暦の計算に使われた五進法と四進法のアバカスも発見されている[32]。これは本来両手の指を使っていたアバカスであり、一方の手の指が順に 0, 1, 2, 3, 4 に対応し、もう一方の指が 0, 1, 2, 3 に対応する。ゼロが使われていたことに注意。

インカ帝国キープは、紐に結び目を作ることで数値データを記録するものだが、計算はできない。計算器具としては yupana(ケチュア語で「計算器具」を意味する)があり、征服後も使われていた。その使用法は不明だったが、2001年にイタリアの数学者 Nicolino De Pasquale がその数学的基礎を説明する説を提唱した。いくつかの yupana を比較することで、その計算の基盤にフィボナッチ数列 1, 1, 2, 3, 5 が使われており、器具のそれぞれのフィールドに置かれた値に10、20、40のべき乗を適用することが判明した。フィボナッチ数列を使うことで各フィールドに置くべき粒の数が最小化されるという[33]
ロシアロシアのアバカス

ロシアのアバカスはschoty(счёты)と呼ばれ、軸が曲がっていて梁で分断されていない。それぞれの軸(針金)には10個の珠があるが、1本だけ4つの珠しかなく、小数点以下の0.25を表すのに使われる。かつては4分の1カペイカ(ルーブルの補助通貨)を表すための桁もあった(0.25カペイカは1916年以降鋳造されていない)。ロシアのアバカスはそろばんなどとは異なり、縦に置いて使用し、軸が左右になる。珠が左右どちらかに落ち着くよう、軸が上に膨らむように曲がっている。最初は全ての珠を右端に寄せておき、必要に応じて珠を左側に移動させる。数えやすくするため、10個の珠のうち真ん中の2個(5番目と6番目)を通常とは異なる色にする。また、千の桁や(もしあれば)百万の桁の左端の珠も違う色にすることがある。

単純で扱いやすい器具なので、ロシアのアバカスはかつてのソビエト連邦全土の商店や市場で使われていた。そして1990年代まで学校でその使い方を教えていた[34][35]機械式計算機が発明されても、ロシアおよびソビエト連邦ではアバカスが廃れることはなかった[36]。ロシアでアバカスが使われなくなるのは電卓の普及によるもので、ソビエト連邦では1974年に小型電卓の生産が始まっている。

ナポレオン・ボナパルトの陸軍に従軍してロシアとの戦争で捕虜になった数学者ジャン=ヴィクトル・ポンスレが1820年、フランスにロシア式アバカスを持ち込んだ[37]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:56 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef