射撃ショーの日付はともかく、オークレイとバトラーはその1年後に結婚した。カナダのオンタリオ州に所蔵される証明書番号49594によると、1882年6月20日、オンタリオ州ウィンザーで結婚した[25][26]。多くの情報源が1876年8月23日にシンシナティで結婚したとしているが[21]、明確な証明となる記録は残っていない。複数の異なる日時が存在する原因として、バトラーと先妻ヘンリエッタ・ソーンダースとの離婚が1876年まで成立しなかったことが挙げられる。1880年の国勢調査には妻はソーンダースと記載されている[27]。複数の情報源が伝える妻の名エリザベスは誤りで、これは孫の名前であり、その父親はエドワード・F・バトラーである[28]。ショービジネスに携わっている間、オークレイは5から6歳若くみられることが多かった。結婚日時が遅いことが若くみられることに役立ったとされる[21]。
キャリアおよび巡業「高得点を狙えば当たるものではない。1-2度、いや、3度撃っても当たらないかもしれない。しかし狙い、撃ち続けて練習を重ねれば強くなれるでしょう。そうすれば命中するようになる」テキサス州フォートワースにある全米カウガール殿堂博物館のアニー・オークレイの展示による
当面の間、オークレイとバトラーはシンシナティに居住した。芸名「オークレイ」はバトラーとコンビを組むようになってから、2人が住むシンシナティの街の名前から名づけられたとされる[3][29][30]。他に、子供の頃に汽車賃を肩代わりしてくれた紳士の名前にあやかったとする説もある[21]。1899年頃のオークレイ
1885年、2人はバッファロー・ビルのワイルド・ウエスト・ショーに参加した。同僚となったシッティング・ブルは「小さな狙撃手」を意味する"Watanya Cicilla"とニックネームをつけ、宣伝にも使われた。
初登壇で、ライフル射撃の名手リリアン・スミスとライバル関係となった。1886年、オークレイより11歳若い15歳でワイルド・ウエスト・ショーに参加してメディアでもてはやされたことから、のちにオークレイも年齢を改ざんすることになったのではないかとされている[31]。オークレイはショーを一時離脱したが、2年後の1889年、スミスの離脱後にパリ万国博覧会に合わせて復帰した[32]。3年に亘る巡業では単に「アメリカ初の女性スター」とだけ紹介された[要出典]。ショーではバッファロー・ビルに次いで高収入を得ていた。また副業として他の様々なショーにも出演していた[32]。
ヨーロッパではイギリスのヴィクトリア女王、イタリアのウンベルト1世、フランスのマリー・フランソワ・サディ・カルノーなど数々の王族や首長らの前で腕前を披露した。ドイツ皇帝となったばかりのヴィルヘルム2世のリクエストにより、オークレイは皇帝自身がくわえた葉巻の灰を撃ち落としたとされる[33]。ワイルド・ウェスト・ショーのポスターのアニー・オークレイ
1892年から1904年、オークレイとバトラーはニュージャージー州ナットリーに住んでいた[34]。
オークレイは軍隊に入隊し、1898年4月5日、ウィリアム・マッキンリー大統領に手紙を書き、アメリカとスペインの戦いに勝つために50名の女性兵士にそれぞれの銃と銃弾を要求した[35]。
米西戦争が開戦したが、オークレイの要求は通らなかった。しかしセオドア・ルーズベルトは自身が率いる義勇騎兵隊にオークレイが出演していた「Buffalo Bill's Wild West and Congress of Rough Riders of the World」に因んで「Rough Riders」と名づけた。
マッキンリー大統領が暗殺された1901年、オークレイは汽車の事故で重症を負ったが、脊椎の手術後回復した。