現存する日本最古のアニメーション作品は幸内純一の『なまくら刀』(1917年〈大正6年〉公開)[5]で日本の最初期の短篇アニメーション映画である。これは1910年代に輸入された短編アニメーションを受け、日本の映画各社の依頼によって制作された10分ほどの作品であり、長らく現存していないとされていたが、2007年(平成19年)に玩具版が発見された。1916年(大正期)から下川凹天、北山清太郎、幸内純一の3人の漫画家、画家がそれぞれ別々にペーパーアニメーションと切り絵アニメーションでアニメ作品の制作を手がけ1917年(大正6年)にいずれも公開されたが、現存するのはこの作品のみである。
下川、北山、幸内の3人は国産アニメの創始者として歴史に名を残したが、いずれも数年足らずでアニメ制作から撤退している。その後、1920年代に入ると、この3人に次いで木村白山、山本早苗、大藤信郎らが頭角を現すようになる。またセルアニメーションの導入が遅れた日本では切り絵アニメーションが発達し、この分野では大藤信郎賞に名を残す大藤信郎が『鯨』(1927年〈昭和2年〉)で国際的な評価を得ている。 1932年(昭和7年)、日本初のトーキーアニメ映画『力と女の世の中』を、後に「日本のアニメーションの父」と称される政岡憲三が松竹で制作している。続いて1933年(昭和8年)に大石郁雄により『動絵狐狸達引』が制作される。 1935年(昭和10年)、日本初の立体アニメーション撮影を用いた実写映画『かぐや姫』が、映画会社JOで制作される。演出を田中喜次、撮影を円谷英二、人形を浅野孟府、アニメーションを政岡憲三が担当している。桃太郎 海の神兵 1943年(昭和18年)、日本初のフルセルアニメーション『くもとちゅうりっぷ』が政岡憲三により制作される。 第二次世界大戦を迎えると、それまで個人工房により乏しい予算で小規模に行われて来た日本のアニメーション制作に対して、軍部より予算が投下され、戦時色の強い国威発揚 1953年(昭和28年)、日本で初めてのカラー(総天然色)・立体アニメーション映画『セロ弾きのゴーシュ』(三井芸術プロ・プーク制作・監督川尻泰司・森永健次郎)が製作された。撮影にはミッチェルの35ミリカメラ、日本初のコニカラーのネガが使用された。 1958年(昭和33年)、東映動画は国産発のカラー長編『白蛇伝』を公開した。 同年、『かみなりんこ物語』『笛吹き王子』を東京中央人形劇場が製作した。東京中央人形劇場は後の(株)東京中央プロダクションであり、電通映画社と共に多数のアニメーション映画を製作した。 東映動画は白蛇伝に引き続き『安寿と厨子王丸』(1961年)、『わんわん忠臣蔵』(1963年)、『ガリバーの宇宙旅行』(1965年)、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)、『空飛ぶゆうれい船』(1969年)、『長靴をはいた猫』(1969年)などの長編漫画映画を世に送り出した。
1930年代から1940年代
1950年代
1960年代
アニメ作品の増加