1933年に首相に指名され、1年程度で指導者原理に基づく党と指導者による一極集中独裁指導体制を築いたため、独裁者の典型とされる[注 2]。ドイツ民族至上主義者であり[2]、その冒険的な外交政策と人種主義に基づく政策は、全世界を第二次世界大戦へと導き、ユダヤ人などに対する組織的な大虐殺「ホロコースト」を引き起こした[3]。ソ連軍によるベルリン占領を目前にした1945年4月30日、夫人のエヴァ・ブラウンと共に自ら命を絶った。 出生地はオーストリア=ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州。父のアロイス・ヒトラーはオーストリア帝国大蔵省の守衛であり、母のクララ・ヒトラーはアロイス宅の住み込み家政婦であった。 第一次世界大戦までは無名の一青年に過ぎなかったが、戦後にはバイエルン州において、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党首としてアーリア民族を中心に据えた人種主義と反ユダヤ主義を掲げた政治活動を行うようになった。1923年に中央政権の転覆を目指したミュンヘン一揆の首謀者となり、一時投獄されるも、出獄後は合法的な選挙により勢力を拡大した。 1933年には大統領による指名を受けてドイツ国首相となり、首相就任後に他政党や党内外の政敵を弾圧し、ドイツ史上かつてない権力を掌握した[注 3]。1934年8月、大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクの死去に伴い、大統領の権能を個人として継承した(総統)。こうしてヒトラーという人格がドイツ国の最高権力である三権を掌握し[6]、ドイツ国における全ての法源となる存在となり[6]、ヒトラーという人格を介してナチズム運動が国家と同一のものになるという特異な支配体制を築いた[7]。この時期のドイツ国は一般的に「ナチス・ドイツ」と呼ばれることが多い。 ヒトラーは人種主義、優生学、ファシズムなどに影響された選民思想(ナチズム)に基づき、北方人種が世界を指導するべき主たる人種
概要
さらに1937年の官邸秘密会議や著書『我が闘争』で示されているように、自らが指導する人種を養うため、旧来の領土のみならず「東方に『生存圏』が必要である」として帝国主義的な領土拡張と侵略政策を進めた[11]。やがて1939年のポーランド侵攻に始まる第二次世界大戦を引き起こし、大陸ヨーロッパの大半を占領した。