アドルフ・ヒトラー
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

1900年、中等教育中学校高校)を学ぶ年頃になるとギムナジウム(大学予備課程)で学びたいと主張したヒトラーに対して、アロイスはリンツのレアルシューレ(実科中等学校、Realschule)への入学を強制した[45]。自伝『我が闘争』によれば、ヒトラーは実科学校での授業を露骨にサボタージュして父に抵抗したが、成績が悪くなっても決してアロイスはヒトラーの言い分を認めなかった[46]

恐らくヒトラーが最初にドイツ民族主義(ドイツ語版)や大ドイツ主義に傾倒したのはこの頃からであると考えられている[47][要文献特定詳細情報]。なぜなら父アロイスは生粋のハプスブルク君主国の支持者であり、その崩壊を意味する過激な大ドイツ主義を毛嫌いしていたからである。また政治的にもおそらくは自由主義的な人物で宗教的にも世俗派に俗した[48]。周囲の人間もほとんどが父と同じ価値観であったが、ヒトラーは父への反抗も兼ねて統一ドイツへの合流を持論にしていた。ヒトラーはハプスブルク君主国は「雑種の集団」であり、自らはドイツという帰属意識のみを持つと主張した[49][要文献特定詳細情報][50][要文献特定詳細情報]。ヒトラーは学友に大ドイツ主義を宣伝してグループを作り、仲間内で「ハイル」の挨拶を用いたり、ハプスブルク君主国の国歌ではなく「世界に冠たるドイツ帝国」を謡うように呼びかけている[51]。ヒトラーは自らの父を生涯愛さず、「私は父が好きではなかった」との言葉を残している。

ただしアロイスによる強制というヒトラーの主張は疑わしいとする見解もある[52]。税務官などの官吏に登用されるには法学を学ぶ必要があり、当時のドイツで法律を学ぶにはラテン語が必修であった。実科学校はギムナジウムと異なりラテン語教育が施されることはまずなく、仮に官吏になったとしても税務官のような上級役職に進める人間はそれこそアロイスのように特例であった。実際、ヒトラーの同窓生達で官吏になったものも鉄道員、郵便局員、動物園職員などに留まっている[38]。もしアロイスが本当に税務官になることを望んだのなら、むしろギムナジウム入学を強制したはずである。よってギムナジウムに進学できなかったのは単にヒトラーの学力不足であって、父アロイスは成績不良の息子が手に職を就けられるように気遣った可能性が高い[52]、というものである。

1901年、田舎の小学校で学んでいたヒトラーは都会の授業についていけず、リンツ実科中等学校一年生の時に必修の数学と博物学の試験に不合格となり、留年となった[52]。1902年には二年生に進級したが、学年末にまたもや数学の試験を落として再試験を受けて辛うじて三年生に進級した[52]。1903年1月3日、14歳の時に父アロイスが65歳(数え年)で病没する。地元の名士だった父の死は地方新聞の記事になっており、料理店で食事中に脳卒中で倒れて死亡したという[48]。しかし憎む対象を失った後もヒトラーの問題行動は収まらず、成績も悪化を続けた。同年には外国語(フランス語)の試験に不合格となって2度目の留年処分を受け、扱い兼ねた学校からは四年生への進級を認めて貰う代わりに退学を命じられる有様だった[52]

退学後、リンツ近郊にあったシュタイアー市の実科中等学校の四年生に復学したが、前期試験で国語数学、後期試験では幾何学で不合格となった。私生活でも下宿生活を送る中、学友と酒場に繰り出して酔った勢いに任せて在学証明証を引き裂くなどの乱行を行い、教師達から大目玉を食らっている[31]。結局、1905年には試験や授業を受けなくなり[53][要文献特定詳細情報]、病気療養を理由に2度目の学校も退校している[54]

ヒトラーにとって唯一正式に教育を終えたのは先述の小学校のみであり、息子の学業に望みを持っていた父と結果として同じ経歴となった。
青年期の挫折
リンツでの日々

1905年、実技学校を離れたヒトラーは一旦は寡婦となった母がいるリンツに戻った。アロイスの死後、ヒトラーは母の溺愛と唯一の男子という立場から「小さなアロイス」として専横的に振舞った。共に父からの体罰に怯えていたはずの妹パウラ・ヒトラーにも家父長的に接し、パウラが学校に向かうのを見張り、何か気に食わない行動があれば平手打ちを食らわせた[55]

しかし家の外に広がる社会に対しては消極的で、気まずさもあって昔の友人とも会うのを避けていたが、暫くしてアウグスト・クビツェクという同年代の青年と交流を持つようになった。クビツェクはアロイスと同じく小学校を出てすぐに働きに出ていたため、実技学校を離れたヒトラーにかえって憧憬を抱いており、ヒトラーに付き従ってリンツ郊外などの散策や歌劇場の観覧に出向いていた[56]。他にシュテファニーという女性に熱を上げていて、実際にアカデミーを出て画家になってから結婚を申し込みたいという手紙を送っている[56]。リンツはヒトラーにとって第二の故郷であり、総統就任後も青年期に構想していたリンツの都市改造計画を実施しようと専用の建築官房まで設立していた。また、この頃のヒトラーはリヒャルト・ワーグナーの未完成の台本に基づき《鍛冶屋ヴィーラント》というオペラの作曲を試みた。

クビツェクによれば当時のヒトラーは手入れの行き届いた清潔な格好をしており、黒い帽子や皮手袋、象牙が用いられたステッキなどを身に付けていた[57]。この上流趣味は父を失ってなおヒトラー家が富裕層であったことを意味しており、ヒトラー自身も「パンのために働く仕事」を軽蔑していたという[57]。母クララは息子が何の仕事にも就かないことを心配しており、義兄(姉の夫)のレオ・ラウバルも「アドルフを職に就かせるべきだ」と迫っていた[58]。本来であれば学業を辞めたのなら同年代の青年達と同じく、何か従弟修行や職業訓練を受けさせなければならなかった。だがヒトラーは執拗に母に画家になる夢を語り、意志の弱いクララは息子の夢に理解を示していたが[57]、内心で不安でもあった[58]

クビツェクはしばしばクララからヒトラーが亡父が望んだような生き方を選ぶように説得してほしいと頼まれたという。そう話すクララの容貌を「実年齢より老け込んで見えた」と回想しており、息子が芸術家としてどうやって身を立てるのか、肝心な部分が曖昧だった事に不安を覚えていたのだろうと推測している[58]。ある時、ヒトラーは絵だけではなく音楽に興味を向け、クララはピアノを買い与えて軍楽隊出身の家庭教師まで付けているが、数か月もしないうちに興味を失って投げ出している[58]。1907年1月、母クララが倒れ、エドゥアルド・ブロッホ医師の診察で重度の乳癌と診断され、ヒトラーとパウラに「殆ど望みはない」ことを告知した[59]。見るからに痩せ細っていくクララにヒトラーは動揺したが何もできず、介護や家事はほとんど叔母ハンニや姉アンゲラ、さらにはまだ小学校に通っていた妹パウラに任せきりだった。
ウィーンへの移住

1907年4月、18歳になったヒトラーは法律上700クローネ相当の遺産分与の権利を得たが、これは当時の郵便局員の収入の一年分であった[57]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:706 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef