アドルフ・ヒトラー
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パン・ヨーロッパ連合主宰者の日系オーストリア人貴族リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギー伯爵、博士)に対しては、「全世界的な雑種のクーデンホーフ」(= Allerweltsbastarden Coudenhove アラーヴェルツバスターデン・クーデンホーフ)[注 23]であると1928年執筆(死後の1961年出版)の自著『第二の書(続・我が闘争)』で形容して嫌っていた[323]。クーデンホーフ=カレルギーは根無し草、コスモポリタン(世界人)、エリート主義の混血で、ハプスブルク一味であった過去の失敗を大陸規模でやるというのが、ヒトラーにとってのクーデンホーフ=カレルギー像であった[324]

クーデンホーフ=カレルギーの側からもヒトラーへの批判があり、その後、表立ってのさまざまな応酬を繰り返してクーデンホーフ=カレルギーを米国亡命に追い込んだ。
女性関係「アドルフ・ヒトラーのセクシュアリティ」も参照ゲッベルスの子供とヒトラー(1933年8月)

ヒトラーは死の直前まで結婚しなかった。これについては色々な理由があるが、基本的にはヒトラーが女性に対して紳士であろうと努めていたことに加え、「結婚すれば多くの婦人票を失うことになる」と恐れていた為であるという[325]。ミュンヘン時代の下宿先であるアンネ・ポップ婦人は当時のヒトラーについて彼が夫妻の部屋に入る時は必ずノックし、入室を許可しても「入っていいですか」と重ねて尋ねた。「そんな堅苦しい礼儀はいい」と夫妻が言ってもヒトラーはそれを続け、ヒトラーの顔がやせていることを気にした夫が食べ物を与えようとしても断った。それを見て彼女はヒトラーのことを「これほど礼儀正しい青年はなかなかいない」と感じたと証言している。ヒトラーは身近な女性や子供に対しては親切で寛容であったという。秘書や使用人のミスに怒声を上げたこともなく、専属の調理婦には常に敬意をもって接していた。恰幅の良い女性に弱かったという証言もある。この傾向は敗戦が近づくにつれ顕著になっていった。個人的に接した子供たちからは「アディおじさん」と呼ばれて親しまれ、ヒトラー自身も子供を可愛がった。たとえば、宣伝相ゲッベルスに対しては常に、彼とマクダ夫人との間に生まれた6人の子供の近況を話すように求めたという。

ただし恋人エヴァの前で「インテリは単純な愚かな女をめとるほうがいい」と語るほど[326]女性の知性を信頼していなかったヒトラーは、女性が政治に関与することは認めていなかった。「女性の部屋にいて、政治的なことに干渉されるのはまっぴらだ」と公言していたこともあり、女性関係がヒトラーの政策に影響を与えることはほとんど無かった[327]。また、ヒトラーには戦場で鼠径部を負傷した際に生殖能力を失っていたという説も根強く存在している[328]。睾丸が一つしかなかったともいわれるが、ヒトラーの主治医らはこれを否定している。しかし実際にヒトラーの睾丸を確認したかは定かではなく、またソ連軍の遺体検証では左睾丸がなく、わざわざ恥骨に引っ込んでいるのではないかと調査しても見つからなかったという記録がある。

女性恐怖症であった事はなく、私生活では男性より女性と会話する事を好み、ジョークや物真似といったくだけた会話も行っていたという[307]。ヒトラーの女性の好みは単純明快で、ふくよかな丸顔と脚線美を持つ女性を美人と見なした。青年期の友人であったアウグスト・クビツェクによると、リンツ時代のヒトラーはシュテファニーという背の高い美しい女性に一目惚れしたが、声をかける勇気が無く彼女が決まって散歩をする道を2人で待ち伏せして見つめたり、あわただしい行動をとって関心をひこうとしたにとどまった。この時ヒトラーはなかなか踏み込めない自分に嫌悪感を持ち相当落ち込んでいたようで、クビツェクに「俺は彼女にどう話しかけたらいいんだ」としばしば助言を求めていたという。ヒトラーからアプローチを受けたと称する女性や、ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォードヴィニフレート・ワーグナーなど噂になった女性も少なからず存在している。中でもヴィニフレートは、ワーグナーの息子ジークフリートの未亡人であり、ワグネリアンとして有名であったヒトラーの強い後援を受けていたため、彼女の主宰するバイロイト音楽祭は国家行事化していた。当時もヒトラーとヴィニフレートの結婚の噂が何度も流れている。姪のゲリ・ラウバルには通常の叔父と姪の関係を超えた愛情を注ぎ、近親相姦関係にあったという説も唱えられている。しかしゲリは1931年に自殺し、ヒトラーは大きな衝撃を受けた。
エヴァ・ブラウンベルクホーフにて、エヴァ・ブラウンとヒトラー、愛犬ブロンディ(1942年6月14日)

確実にヒトラーと恋人関係になったといえるのは最期を共にしたエヴァ・ブラウンのみである。エヴァ・ブラウンとヒトラーが知り合ったのは1927年10月初めのことで、ナチ党専属写真師ハインリヒ・ホフマンの写真館に勤めるエヴァに魅かれたヒトラーが食事や映画に誘うようになったという。ヒトラーは秘書のクリスタ・シュレーダー(ドイツ語版)に「エヴァは好ましい女性だ。しかし、私の生涯で本当に情熱をかき立てさせられたのは、ゲリだけだ。エヴァとの結婚は考えられない。生涯を結びつけることができる女性は、ただ一人、ゲリだけだった」[325]と語るなど、この時点ではまだエヴァとの結婚を考えていなかった。1932年11月1日、政治に没頭しなかなか会いに来ないヒトラーに痺れを切らしたエヴァはピストル自殺を図ったが未遂に終わり、このとき自殺に失敗したエヴァが呼んだ医師は写真師ホフマンの義弟だったためにこのスキャンダルは内密に収まった。一般の病院に連絡しなかったという配慮にヒトラーはいたく感動し、以後2人の関係はいっそう深まった。しかし彼女は首相として多忙となったヒトラーの愛情を疑い、1935年5月28日にもう一度自殺未遂を行っている。

オーバーザルツベルクベルクホーフの女主人となってからのエヴァは、一転してヒトラーの恋人としての立場を確かなものにしていった。オーストリアにて故郷のリンツで熱狂的に歓迎されたヒトラーは、そこからエヴァに電話をかけてウィーンに同行させている[329]。イギリスがドイツに宣戦布告した際にユニティが帰国し、1940年の夏以降にはバイロイト音楽祭に通わなくなっていたヒトラーはベルクホーフを頻繁に訪れるようになり、戦争は二人をより親密にした[330]。エヴァは次第に表に顔を出すようになり、ヒトラーの誕生祝いやムッソリーニの栄誉を称えるレセプションにも招かれた[331]。ヒトラーはゲーリングに「エヴァは私にとって生涯の女性で、戦争が終わったら私は引退してリンツの町へ行き、そこで彼女を妻にすることに決めている」と語った[332]。絵を描き回想録を綴りながら余生を送ろうと考え、「エヴァと私は結婚してリンツの美しい家で暮らすことになるだろう」と請け合った。エヴァの姉妹によると彼は引退後エヴァと暮らすための住居として、リンツだけでなくエヴァの故郷であるミュンヘンにも土地を買っていた[333]

1945年に戦局が悪化してベルリンの陥落が間近に迫った時、エヴァはヒトラーの反対を押し切り、ベルリンの総統地下壕にやって来た。ヒトラーは彼女に報いるため4月29日に結婚し、正式な夫婦となった。エヴァは周囲の人々に、とうとう結婚できたことを喜び、「可哀そうなアドルフ、彼は世界中に裏切られたけれど私だけはそばにいてあげたい」と語ったという。翌日、ヒトラー夫妻は心中した。
趣味
芸術設計図に手を入れるヒトラーとシュペーア(1934年)

ヒトラーは「自分の本質は政治家ではなく芸術家である」と信じており、「(第一次世界大戦がなかったら)ドイツ一のとまでは行かないまでもドイツ有数の建築家になったと思う。」と答えたこともあった。そして気に入った芸術家(特に建築家)に対しては敬意を持って接した。閣僚陣では建築家でもある軍需相アルベルト・シュペーアへの態度が格別で、シュペーアと建築の話をし出すと何時間でも熱中し、その間は政治的決裁は全て後回しにされて側近を困らせた。ナチ党唯一の知識人を自認していた宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスも、ヒトラーとの話の中には、芸術の話題を散りばめてヒトラーを楽しませることに心を砕いた。フェルメールの大ファンだったという。音楽においてはワーグナー信仰者だった。

ただし芸術的な感性はかつてウィーン美術アカデミー受験に再三失敗していたことからも明らかなように先進的とは言いがたく、また古典主義者としても洗練されてはいなかった。ナチ政権時代の芸術の多くは映画など近代的な分野での成功が多く、また工業デザインは生産性に適したモダンデザインが採用されており、必ずしもヒトラーの好みが反映されていない分野に集中した。逆にヒトラーが新古典主義様式の復活を謳って推進した絵画や彫刻などはほとんど名が残らなかった。現代における古典主義の再評価の流れにおいてすら、これらの粗悪な模倣品が顧みられることはあまりない。むしろ頽廃芸術展バウハウスの強制閉鎖などドイツにおける芸術の自由を押し留める行為を繰り広げた。

側近達とのピクニック散歩を好み、戦局がかなり悪化してからもティータイムを取ることを欠かさなかった。


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