アドルフ・ヒトラー
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モレルの診断や処方する劇薬に他の医師達は懐疑的であり、紹介したエヴァをはじめとする側近達も次第に不信感を強めたが、症状回復を望んでいたヒトラーの信頼は厚く、最期を迎える寸前までモレルは主治医を務めた[注 21]。モレルの個人的メモにはヘロインなどの記録があり、ジャーナリストのノーマン・オーラー(ドイツ語版)が唱えるようにヒトラーが薬物中毒の状態にあったという主張もある[310]。ただし、モレルのメモには量や頻度に関する記載がほとんどなく、あったとしてもごく僅かな頻度にとどまっている上、イアン・カーショーが指摘したように、モレルとの出会いの前後でヒトラーの性格が変化したということもないため、ヒトラーが麻薬中毒状態にあったという説は多くの歴史家から否定されている[311][312]

大戦中の1942年頃からヒトラーは左手が震えるようになった。左手の震えは、徹底した撮影アングルの規制と検閲によって記録フィルムからカットされたが、検閲に漏れたニュース・フィルムと、カットされたものの破棄されずに残った一部のフィルムによって確認されている。映像を見た小長谷正明などの神経科医や、晩年のヒトラーと接見した親衛隊大佐兼国防軍軍医のエルンスト=ギュンター・シェンク教授はパーキンソン病と断定している。当時は治療法がなく、症状は確実に進み、肉体と思考能力を低下させていった。食事の際も震えは止まらず、右手も不自由になりしばしばスープをこぼしてしみが付いた。このパーキンソン病は1941年頃から発症し、それがかつての柔軟な外交政策を取った頃と異なり、頑迷で無理な戦争指導につながった側面がある。

1944年頃になると震えに加えて猫背になり、よちよち歩きをするようになった。まだ55歳であったにもかかわらず、衰えた容貌から70代の老人に見えたという。精神的にも戦局の悪化などかんしゃくを起こすようなできごとが多くなり、不眠症に拍車を掛けた。そのため体力も急速に衰えはじめ、数十メートルほどしか歩けなくなり、従者の体に寄りかかったり、総統専用のベンチに座って休憩をしなければならなくなった。シュペーアの証言では、晩年には美術学生時代の技術は失われ、対面した際地図に直線を引くつもりが線は次第に曲がっていった。署名も判読できなくなり、ボルマンに悪用されることになった。視力も衰え、専用の通常より3倍も大きな文字で打たれた書類ですら大きな虫眼鏡で目を通さなければならなかった。青年期からの誇大妄想やパラノイアも悪化して、周囲をほとんど信用しなくなった。
健康法詳細は「アドルフ・ヒトラーのベジタリアニズム」を参照

一般的な健康法である運動は好まず、色白で汗をかかない姿から不健康な人物という印象を与える事もしばしばだった。本人は運動不足を心配した医者に「私にとっての最大のスポーツは演説だ」と反論したことがあるが、事実あまりにも激しい熱弁を振るった後の彼の体重は数kgも減少していたという。第一次大戦時の負傷や、ミュンヘン一揆での肩の脱臼などで激しいスポーツができなかったという部分もあった。運動嫌いのヒトラーは食事を菜食中心に努め、飲酒や喫煙も控える事で健康的な生活を試みている。後に宿敵となるスターリンチャーチルが大酒飲みでヘビースモーカーであったのとは対照的であった。

ウィーンを放浪していた時期を知る人物によると、若い時代からヒトラーはあまり酒やタバコに手は出さなかったという。禁煙についてはボルマンが聞いた内容によれば、青年時代には喫煙をしていたが金が底をついた為に辞める決意をし、タバコを川へ捨てたというヒトラー自身の回想が触れられている。母親が煙草嫌いであった事も影響したという見方もある。部下や党高官が喫煙するのを見た時には、「体に悪いから」と禁煙を勧めるほどであったという。エヴァ・ブラウンを含め、ヒトラーの部下や周辺人物のほとんどが喫煙者であったが、ヒトラーの前やヒトラーが出入りする部屋で喫煙することは厳禁であった。しかし終戦間際の総統地下壕では威厳も薄れ、ヒトラーが近くを通っても皆平然と煙草を吸っていたという。禁酒については上記の父が飲酒している時に脳卒中になった事から避けるようになった。バルジの戦いの初期、軍の攻勢が順調に進んでいることを祝ってヒトラーがワインを口にするのを見て驚いたという側近の証言が残されている。

菜食主義については溺愛しためいのゲリ・ラウバルの自殺後になったともされるが、実際にはレバーのダンプリングや、ソーセージ鶏肉を食べることもあり[313]、それほど徹底してはいなかった。伝記作家のロバート・ペインによると、ヒトラーはソーセージが好物であり、ヒトラーが厳格な菜食主義者[314]であったとする神話は、ゲッベルスによる印象操作であると主張している[315][要ページ番号]。一方で戦時中に菜食主義者団体を弾圧したという説については、アメリカベジタリアン協会歴史アドバイザーのリン・ベリー(英語版)らに否定されている[316]
対人関係パレスチナの指導者のハーッジ・アミーン・フサイニーと会見するヒトラー(1941年)

ヒトラーはコミュニケーション能力にいささか問題があったようで、シュペーアによれば「彼は気取らないリラックスした会話ができなかったようだ」と観察し、「不機嫌な時の言葉は学童とほぼ同じ程度だった」と証言した。粛清されたエルンスト・レームも「彼は批判されるのが嫌いで、党内で彼の提案が疑問視されるとすぐさまその場から消え、自分が通じていない話をするのも嫌がった」と記している。

ただし客として面会した人間を魅了することはよく知られており、多くのドイツ人や、デビッド・ロイド・ジョージといった外国人もヒトラーと面会した際には好印象を持ったと語っている。しかしいったん敵となった人物に対しては口をきわめて罵った。たとえば1933年のニューヨーク・タイムズのインタビューでは、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに対して「共感を覚える」「ヨーロッパにおいて大統領の方法や動機に理解をしめした唯一の指導者」などと語っていたが[317]、アメリカの参戦以降の評価はきわめて辛辣なものとなった。また枢軸国の首脳などには高額な贈り物を行い、ホルティ・ミクローシュは65万ライヒスマルクの機関付きヨットの贈与を受けている[318]


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