アドルフ・ヒトラー
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日本人には鋭い直観が備わっており、さすがのユダヤ人も内から日本を攻撃できないということが分かっているのだ」と述べ、イギリスとアメリカが日本と和解すれば多大な利益を得られるが、その和解を妨害しているのがユダヤ人だと語っている[276][注 16]

日本人が「名誉アーリア人」としての扱いを受けたという説もあるが、帝国市民法(ドイツ語版)などヒトラーが裁可した人種差別法では、日本人が明示的に厚遇を受けたわけではない。1934年に日本人が関わった事件の報道の際、人種法について触れないようにするという通達が行われたように、あくまで政治的配慮によって手心を加える範囲のものであった。また「我々ドイツ人は日本人に親近感など抱いてはいない。日本人は生活様式も文化もあまりにも違和感が大きすぎるからだ」とも述べている[277][注 17]
ホロコースト詳細は「ホロコースト」を参照ヒトラーの生家の前の歩道に建てられた戦争とファシズムに反対する記念碑(英語版)。「平和、自由、そして民主主義のため 二度とファシズムを繰り返すな 数百万人の死者は警告する」と刻まれている。石はマウトハウゼン強制収容所の採石場にあったものが使われている。

1940年にヒトラーは、ドイツ国内のユダヤ人をマダガスカルに移送させる計画(マダガスカル計画)を検討させた。これはドイツの影響下からユダヤ勢力を排除するための作戦であり絶滅作戦ではなかったが、戦局の悪化により移送は不可能になった。1942年1月にはドイツ国内や占領地区におけるユダヤ人の強制収容所への移送や強制収容所内での大量虐殺などの、いわゆるホロコーストの方針を決定づける「ヴァンゼー会議」が行われた。しかしながら、文章上では「絶滅」や「殺害」と言った直接的な語句は使われず、「追放」や「移民」と言った語句が最後まで使用された。

政権奪取以降、ユダヤ人迫害政策を指揮、指導していたヒトラー自身が、ユダヤ人絶滅自体を命じたという書類は現存していない。このため、ホロコーストの命令に関しては「ヒトラーが包括的・決定的・集中的な一回限りの絶滅命令を口頭で指令した」というジェラルド・フレミング、クリストファー・ブロウニング(英語版)らの説、「正規の集中的絶滅命令は存在せず、軍政・民政・党・親衛隊の各部局が部分的絶滅政策を行った。ヒトラーはこれらの政策に同意や支持を与えていた」とし、絶滅政策が一貫したものではなく即興性を持つものであるというミュンヘンの現代史研究所所長マルティン・ブロシャート(ドイツ語版)、ハンス・モムゼン(ドイツ語版)、ラウル・ヒルバーグらの説がある[278]

しかし、1941年12月12日に全国指導者や大管区指導者を集めて行われた会議(en)においてヒトラーは「ユダヤ人の絶滅は必然的結果でなければならない」と演説しており、その演説はゲッベルスの日記に記録されている[279]。内々でも「この戦争の終結はユダヤ民族の絶滅を意味する」と語っている[注 18]

党写真家ハインリヒ・ホフマンの娘でヒトラー・ユーゲント指導者バルドゥール・フォン・シーラッハの夫人であったヘンリエッテ・フォン・シーラッハ(ドイツ語版)の回想は、ヒトラーがホロコーストに関してそれを指示し、賛同する立場であったことを証明するものとされている。ヘンリエッテは、ドイツ占領下の地に住むユダヤ人が次々と逮捕され、列車に詰め込まれ収容所に送られていることを知り、ヒトラーに直訴することを考えた。1943年4月7日にパーティの場でヘンリエッテがそのことを告げると、ヒトラーは激怒して「あなたはセンチメンタリストだ!いったいあなたと何の関係がある!ユダヤ女のことなどほっといてもらいたい!」と怒鳴りつけた[281]。その後、ヘンリエッテは2度とヒトラーから招待を受けることはなかったという。
健康政策

ヒトラーはドイツ民族の健康を守ることにも強い関心を持っていた。特に、1907年に母親クララを乳癌で失ったヒトラーにとって、癌の治療は特別な意味を持っていた。厚生事業のスローガンとして「健康は国民の義務」を定め、喫煙に対しても反タバコ運動を積極的に行った。環境や職場における危険を排除し(発癌性のある殺虫剤や着色料の禁止)、早期発見を推奨した。医師達はとくにタバコの害を熱心に訴え、彼らは世界で最も早く喫煙肺癌と結び付けた[282]

「健全な民族の未来は女性にある」として女性の体育を奨励したことでも知られる。そのため現在のドイツでは、政府による過度の健康問題への介入や禁煙禁酒運動を「ナチズムを彷彿させるもの」としてタブー視する傾向にある[283][284][285]
政治手法
演説詳細は「アドルフ・ヒトラーの演説一覧」を参照

ヒトラーは「人を味方につけるには、書かれた言葉よりも語られた言葉のほうが役立ち、この世の偉大な運動はいずれも、偉大な書き手ではなく偉大な演説家のおかげで拡大する」と演説の力を極めて高く評価していた[286]。ヒトラーは若年の頃から演説をする癖を持っており、親友であったクビツェクもその演説をたびたび聴かされている[287]。第一次世界大戦直後に軍の情報員として働いていたころから初めて多くの人々の前で演説することになり、大きな喝采を得た[106]。ヒトラーは「私は演説することができた」と回顧している[106]。ナチ党の指導者になってからも「大衆を興奮させ、感激させる術を心得ており、」「俗物の大きなうなり声と金切り声で大衆を魅了した」[注 19]。またヒトラー自身も『我が闘争』において、「大学教授に与える印象によってではなく、民衆に及ぼす効果」によって演説の価値が量られるとしている[289]。ヒトラーの演説は一見その場のアドリブのように見えるが、実際には詳細なメモ書きによって構成されていた。一見変わった言い方をしている場合にも、大衆の興味をひく意図があってあえて変更していることもあった[290]。ミュンヘン一揆後にはバイエルン州などによって演説を禁じられ、アドルフ・ヴァーグナーに演説を代読させることもあった[291]。対比法、平行法を駆使し、修辞的な面でにもヒトラーの演説は1925年頃にすでに完成の域に達していた[292]

しかしヒトラーの発声術は独学によるものであり、1932年頃には声帯を損傷する恐れもでてきた。そこでヒトラーはオペラ歌手パウル・デフリーント(ドイツ語版)の指導を受け、声帯に負担をかけずよく通る発声術や、効果的なジェスチャーを身につけた[293]。デフリーントはヒトラーがプロパガンダのために、同じ内容の演説を繰り返すことに辟易していた様を記録に残している[294]。またエリック・ヤン・ハヌッセンからボディ・ランゲージの指導を受けたとする説がある。

政権獲得後にはラジオによる演説も行われるようになったが、大衆が飽きるのも早く、1934年頃からヒトラー演説の放送は次第に減少し、娯楽番組が多く流されるようになった[295]。亡命ドイツ社会民主党指導部(ドイツ語版)の通信員も、ヒトラー演説の聴取を義務づけられた大衆が冷たい反応を示している様を記録に残している[296]

戦局が苦しくなると、ヒトラーの演説は次第に減少し、大規模なラジオ演説は1940年に9回、1941年に7回、1942年に5回、1943年には3回にまで減少した[297]。迫力のある演説も減少し、原稿をただ読み上げるだけの演説が、聴衆の無い会場で収録されたものが放送されるようになった[298]。1945年1月30日に放送された、ドイツ国民にむけた演説が最後のものとなった[299]
部下の支配

ヒトラーは自身の行動を評価する組織の存在も許さなかったし、制約する規範や法律の制定を認めなかった[140]


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