アドルフ・ヒトラー
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また、上記にあるようにヒトラーの父のアロイスが婚外子ということで、ヒトラーが政権を把握すると彼自身が「ユダヤ系」ではないかと巷の噂が流布されたが、ヒトラーの死後の史家による徹底的な調査の結果、否定されている(下記も参照)[25]
生涯
幼少期
生い立ち幼少期の写真ヒトラー(最後列の中央)が10歳から11歳まで通った小学校の集合写真

1889年4月20日の午後6時30分、当時ヒトラー家が暮らしていたブラウナウにある旅館ガストホーフ・ツー・ボンマーでアロイス・ヒトラーとクララ・ヒトラーの四男として出生、2日後の4月22日にローマ・カトリック教会のイグナーツ・プロープスト司教から洗礼を受け、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)と名付けられた[26]。洗礼には叔母ハンニと産婆ポインテッカーの二人が立ち会っている[26]

ヒトラーが3歳の時に一家は別の家に引っ越して、ドイツ帝国バイエルン王国パッサウ市へ転居している[27][要文献特定詳細情報]。バイエルン・オーストリア語圏の内、オーストリア方言からバイエルン方言の領域へ移住したことになった。彼の用いるドイツ語には標準ドイツ語と異なる独特の「訛り」が指摘されるが、それはバイエルン人としての出自ゆえのことである[28][要文献特定詳細情報][29][要文献特定詳細情報][30][要文献特定詳細情報]。幼いヒトラーは西部劇に出てくるインディアンの真似事に興じるようになった。また父が所有していた普仏戦争の本を読み、戦争に対する興味を抱くようになった[31]。1895年、リンツに単身赴任していたアロイスが定年退職により恩給生活に入ると、一家を連れてハーフェルト村という田舎町に引越し、屋敷を買って農業と養蜂業を始めていた。ヒトラーはランバッハ(英語版)の郊外にあったフィッシュルハム(英語版)の国民学校(小学校)に通った。

1896年、異母兄アロイス2世が父との口論を契機に14歳で家から出て行き、二度とヒトラー家には戻らなかった[32]。異母弟ヒトラーや継母と折り合いが悪かった事も一因と見られている[32]。跡継ぎとなったヒトラーは1897年まで国民学校に在籍した記録が残っているが[33][34][要文献特定詳細情報]、フィッシュルハム移住後から学校の規律に従わない問題児として、ヒトラーも父と諍いを起こすようになった[35][要文献特定詳細情報]。1897年、父親の農業は失敗に終わり、一家は郊外の農地を手放してランバッハ市内に定住している。ヒトラーもベネディクト修道会系の小学校に移籍し、聖歌隊に所属するなどキリスト教を熱心に信仰して、聖職者になることを望んだ[36]。ベネディクト修道会の聖堂の彫刻には後にナチスのシンボルマーク章として採用するスワスチカが使われていた[37][要文献特定詳細情報]。本人によれば、信仰心というよりも華やかな式典や建物への憧れが強かったようである[38]

1898年、ランバッハからも離れてリンツ近郊のレオンディングにアロイスと一家は同地に定住したが、後年にヒトラーから生家を案内されたゲッベルス曰く「小さく粗末な家」であったという。弟エドムントが亡くなる不幸などを経て、次第にヒトラーは聞き分けの良い子供から、父や教師に口答えする反抗的な性格へと変わっていった[39]。感傷的な理由からではなく、単純にアロイス2世の家出もあってヒトラーが唯一の跡継ぎになってしまい、一層に父親からの干渉が増したからである。1899年、各地を転々としていたヒトラーは義務教育を終え、小学校の卒業資格を得た。
父とのいさかい

母クララとの関係は良好だったが、家父長主義的なアロイスとの関係は不仲になる一方だった。アロイスの側も隠居生活で自宅にいる時間が増えたことに加え、農業事業に失敗した苛立ちから度々ヒトラーに鞭を使った折檻をした[40]。アロイスは無学な自分が税関事務官になったことを一番の誇りにしており、息子達も税関事務官にすることを望んでいた[41][要文献特定詳細情報]。これもますますヒトラーとの関係を悪化させた。後にヒトラーは父が自分を強引に税関事務局へ連れて行った時のことを、父との対立を象徴する出来事として脚色しながら語っている[42][43][44][要文献特定詳細情報]。1900年、中等教育中学校高校)を学ぶ年頃になるとギムナジウム(大学予備課程)で学びたいと主張したヒトラーに対して、アロイスはリンツのレアルシューレ(実科中等学校、Realschule)への入学を強制した[45]。自伝『我が闘争』によれば、ヒトラーは実科学校での授業を露骨にサボタージュして父に抵抗したが、成績が悪くなっても決してアロイスはヒトラーの言い分を認めなかった[46]

恐らくヒトラーが最初にドイツ民族主義(ドイツ語版)や大ドイツ主義に傾倒したのはこの頃からであると考えられている[47][要文献特定詳細情報]。なぜなら父アロイスは生粋のハプスブルク君主国の支持者であり、その崩壊を意味する過激な大ドイツ主義を毛嫌いしていたからである。また政治的にもおそらくは自由主義的な人物で宗教的にも世俗派に俗した[48]。周囲の人間もほとんどが父と同じ価値観であったが、ヒトラーは父への反抗も兼ねて統一ドイツへの合流を持論にしていた。ヒトラーはハプスブルク君主国は「雑種の集団」であり、自らはドイツという帰属意識のみを持つと主張した[49][要文献特定詳細情報][50][要文献特定詳細情報]。ヒトラーは学友に大ドイツ主義を宣伝してグループを作り、仲間内で「ハイル」の挨拶を用いたり、ハプスブルク君主国の国歌ではなく「世界に冠たるドイツ帝国」を謡うように呼びかけている[51]。ヒトラーは自らの父を生涯愛さず、「私は父が好きではなかった」との言葉を残している。

ただしアロイスによる強制というヒトラーの主張は疑わしいとする見解もある[52]。税務官などの官吏に登用されるには法学を学ぶ必要があり、当時のドイツで法律を学ぶにはラテン語が必修であった。実科学校はギムナジウムと異なりラテン語教育が施されることはまずなく、仮に官吏になったとしても税務官のような上級役職に進める人間はそれこそアロイスのように特例であった。実際、ヒトラーの同窓生達で官吏になったものも鉄道員、郵便局員、動物園職員などに留まっている[38]


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