アドルフ・ヒトラー
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我々は3000年間一度も負けたことのない味方ができたのだ」と語り対米宣戦を行い[注 13]、当時の日本の快進撃を誇大発表と感じており、日本の発表を直接報道しない措置を承認している[271]。『わが闘争』では、第一次世界大戦前のオーストリアを重視したドイツの外交政策を批判する際、日英同盟と日露戦争を引き合いに出し日本の外交政策を称賛している。

軍事面ではヒトラーが実権を握った後も遣独潜水艦作戦のような協力があり、レーダーなど最新技術の提供も行われている。

日本がドイツの最終的なライバルになるとの考えもしばしば口にしており、「近い将来、我々は東洋の覇者(日本)と対決しなければならない段階が来るだろう」とシュペーアたち側近に語っていたというエピソードがある。ポーランド侵攻直前にはイギリス大使ネヴィル・ヘンダーソン(英語版)に対し、「大戦争が起きれば各国が共倒れになり、唯一の勝者が日本になる」と伝えている[272]

日独防共協定成立以降は、ヒトラーと多くの日本人が面会し、いずれもヒトラーが親日的であるという感想を持った。鳩山一郎は「彼の日本に対する憧憬は驚くべきものがある」とし、伍堂卓雄は「彼の日本に対する考え方は絶対的である」と捉え、駐独大使武者小路公共は「ヒトラーの日本贔屓は日露戦争の時からだ」と発言している[273][注 14]。またヒトラーはポーランド戦役大島浩大使に「貴国には『勝ってかぶとの緒を締めよ』という諺のあることを承知したが、これは誠に意味の深い言葉である。われわれは今こそ兜の緒を締めるべき時である」この日本の諺を好んで口にしている。

1939年にベルリンで開かれた「伯林日本古美術展」では、美術展を公式訪問したヒトラーが雪村の風濤図を含めた数点の美術品に深く興味を示したという報道が日本では行われたが[注 15]、ドイツではヒトラーが興味を持った作品についてはほとんど報道されなかったことからも、ヒトラーの美術展訪問はあくまで儀礼的なものであったと安松みゆきは主張している。[275]

ヒトラーは「ユダヤ人は日本人こそが彼らの手の届かない相手だと見ている。日本人には鋭い直観が備わっており、さすがのユダヤ人も内から日本を攻撃できないということが分かっているのだ」と述べ、イギリスとアメリカが日本と和解すれば多大な利益を得られるが、その和解を妨害しているのがユダヤ人だと語っている[276][注 16]

日本人が「名誉アーリア人」としての扱いを受けたという説もあるが、帝国市民法(ドイツ語版)などヒトラーが裁可した人種差別法では、日本人が明示的に厚遇を受けたわけではない。1934年に日本人が関わった事件の報道の際、人種法について触れないようにするという通達が行われたように、あくまで政治的配慮によって手心を加える範囲のものであった。また「我々ドイツ人は日本人に親近感など抱いてはいない。日本人は生活様式も文化もあまりにも違和感が大きすぎるからだ」とも述べている[277][注 17]
ホロコースト詳細は「ホロコースト」を参照ヒトラーの生家の前の歩道に建てられた戦争とファシズムに反対する記念碑(英語版)。「平和、自由、そして民主主義のため 二度とファシズムを繰り返すな 数百万人の死者は警告する」と刻まれている。石はマウトハウゼン強制収容所の採石場にあったものが使われている。

1940年にヒトラーは、ドイツ国内のユダヤ人をマダガスカルに移送させる計画(マダガスカル計画)を検討させた。これはドイツの影響下からユダヤ勢力を排除するための作戦であり絶滅作戦ではなかったが、戦局の悪化により移送は不可能になった。1942年1月にはドイツ国内や占領地区におけるユダヤ人の強制収容所への移送や強制収容所内での大量虐殺などの、いわゆるホロコーストの方針を決定づける「ヴァンゼー会議」が行われた。しかしながら、文章上では「絶滅」や「殺害」と言った直接的な語句は使われず、「追放」や「移民」と言った語句が最後まで使用された。

政権奪取以降、ユダヤ人迫害政策を指揮、指導していたヒトラー自身が、ユダヤ人絶滅自体を命じたという書類は現存していない。このため、ホロコーストの命令に関しては「ヒトラーが包括的・決定的・集中的な一回限りの絶滅命令を口頭で指令した」というジェラルド・フレミング、クリストファー・ブロウニング(英語版)らの説、「正規の集中的絶滅命令は存在せず、軍政・民政・党・親衛隊の各部局が部分的絶滅政策を行った。ヒトラーはこれらの政策に同意や支持を与えていた」とし、絶滅政策が一貫したものではなく即興性を持つものであるというミュンヘンの現代史研究所所長マルティン・ブロシャート(ドイツ語版)、ハンス・モムゼン(ドイツ語版)、ラウル・ヒルバーグらの説がある[278]

しかし、1941年12月12日に全国指導者や大管区指導者を集めて行われた会議(en)においてヒトラーは「ユダヤ人の絶滅は必然的結果でなければならない」と演説しており、その演説はゲッベルスの日記に記録されている[279]。内々でも「この戦争の終結はユダヤ民族の絶滅を意味する」と語っている[注 18]

党写真家ハインリヒ・ホフマンの娘でヒトラー・ユーゲント指導者バルドゥール・フォン・シーラッハの夫人であったヘンリエッテ・フォン・シーラッハ(ドイツ語版)の回想は、ヒトラーがホロコーストに関してそれを指示し、賛同する立場であったことを証明するものとされている。ヘンリエッテは、ドイツ占領下の地に住むユダヤ人が次々と逮捕され、列車に詰め込まれ収容所に送られていることを知り、ヒトラーに直訴することを考えた。1943年4月7日にパーティの場でヘンリエッテがそのことを告げると、ヒトラーは激怒して「あなたはセンチメンタリストだ!いったいあなたと何の関係がある!ユダヤ女のことなどほっといてもらいたい!」と怒鳴りつけた[281]。その後、ヘンリエッテは2度とヒトラーから招待を受けることはなかったという。
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