アドルフ・ヒトラー
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

遺書をタイプした後の午前2時[230][注 9]、エヴァと結婚式を挙げた。そして4月30日、毒薬の効果を確かめるため愛犬ブロンディを毒殺した後、午後3時にエヴァと共に自室に入り、自殺した。56歳没。

自殺の際ヒトラーは拳銃を用い(青酸カリを使ったとする説もある[231])、エヴァは毒を仰いだ。遺体が連合軍の手に渡るのを恐れ、140リットルのガソリンがかけられ焼却された。焼け残った遺体は後に赤軍が回収し、検死もソ連医師のみによるものだったこと、また側近らの証言も曖昧で矛盾したものが多かった為、長い間ヒトラーの死の詳細は西側諸国には伝わらなかった。これらのことが後年「ヒトラー生存説」が唱えられる原因となった。

ソ連によりヒトラーの死体は秘密裏に埋められたが、1970年に掘り起こされ、完全に焼却されたあとにエルベ川に散骨された。これらの情報は、冷戦終結後の1992年に旧ソ連のKGBと、後継組織であるロシアFSBに保管されていた記録が公開されたことによって明らかになった。
略年表

1889年(0歳):オーストリア・ハンガリー帝国の
ブラウナウ地方でバイエルン人税関吏アロイス・ヒトラーの4男として生まれる。

1895年(6歳):父アロイスの農業事業のためにバイエルン王国パッサウ地方に移住。

1897年(8歳):父の事業が失敗し、一家はオーストリアへ戻る。アロイスとヒトラーとの諍いが始まる。

1900年(11歳):小学校を卒業。大学予備課程(ギムナジウム)には進めず、リンツの実技学校(リアルシューレ)に入学する。

1901年(12歳):二年生への進級試験に失敗、留年

1903年(14歳):アロイス病没。リンツ実技学校中退。

1904年(15歳):シュタイアー実技学校入学。

1905年(16歳):シュタイアー実技学校中退。以後、正規教育は受けず。

1906年(17歳):遺族年金の一部を母から援助されてウィーン美術アカデミーを受験するも不合格。以降、下宿生活を続ける。

1908年(19歳):アカデミー受験を断念。下宿生活を終えて住居を転々とする。

1909年(20歳):住所不定の浮浪者として警察に補導される。独身者向けの公営住宅に入居。

1911年(22歳):遺族年金を妹に譲るように一族から非難され、仕送りが止まる。水彩の絵葉書売りなどで生計を立てる。

1913年(24歳):オーストリア軍への兵役回避の為に国外逃亡。翌年に強制送還されるが「不適合」として徴兵されず。

1914年(25歳):第一次世界大戦にドイツ帝国が参戦するとバイエルン軍に義勇兵として志願。

1918年(29歳):マスタードガスによる一時失明とヒステリーにより野戦病院に収監、入院中に第一次世界大戦が終結する。最終階級は伍長勤務上等兵。

1919年(30歳):革命中のバイエルンレーテに参加し、大隊の評議員となる。革命政権崩壊後、ミュンヘンを占領した政府軍に軍属諜報員として雇用され、ドイツ労働者党への潜入調査を担当する。

1920年(31歳):ドイツ労働者党の活動に傾倒し、軍を除隊。党は国家社会主義ドイツ労働者党に改名される。

1921年(32歳):党内抗争で初代党首アントン・ドレクスラーを失脚させ、第一議長に就任する。Fuhrer(フューラー)の呼称がこの頃から始まる。

1923年(34歳):ベニート・ムッソリーニローマ進軍に触発されてミュンヘン一揆を起こすが失敗。警察に逮捕される。

1924年(35歳):禁錮5年の判決を受けてランツベルク要塞刑務所に収監。12月20日、仮釈放される。

1926年(37歳):『我が闘争』出版。党内左派の勢力を弾圧し、指導者原理による党内運営を確立(バンベルク会議)。

1928年(39歳):ナチ党としての最初の国政選挙。12の国会議席を獲得。

1930年(41歳):ナチ党が第二党に躍進。

1932年(43歳):ドイツ国籍を取得。大統領選に出馬、決選投票でヒンデンブルクに敗北して落選。しかし国会選挙では第一党に躍進してさらに影響力を高める。

1933年(44歳):大統領ヒンデンブルクから首相指名を受ける。全権委任法制定、一党独裁体制を確立。

1934年(45歳):突撃隊幹部を粛清して独裁体制を強化(長いナイフの夜)。ヒンデンブルク病没。大統領の職能を継承し、国家元首となる(総統)。

1936年(47歳):非武装地帯であったラインラントに軍を進駐させる(ラインラント進駐)。ベルリンオリンピック開催。

1938年(49歳):オーストリアを武力恫喝し、併合する(アンシュルス)。ウィーンに凱旋。ミュンヘン会談ズデーテン地方を獲得。

1939年(50歳):チェコスロバキアへ武力恫喝、チェコを保護領に、スロバキアを保護国化(チェコスロバキア併合)。同年に独ソ不可侵協定を締結、ポーランド侵攻を開始、第二次世界大戦が勃発する。以降大半を各地の総統大本営で過ごす。

1940年(51歳):ドイツ軍がノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻。フランス降伏後、パリを訪れる。

1941年(52歳):ソビエト連邦に侵攻を開始(独ソ戦)。年末には日本に追随してアメリカに宣戦布告。

1943年(54歳):スターリングラードの戦いで大敗。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:705 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef