アドルフ・ヒトラー
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誰も私に真実を話さなかった」と言うほどであった[226][注 8]部隊を視察するヒトラーとゲーリング(1945年4月)

赤軍はベルリン市内に砲撃を加え、じりじりと迫ってきた。ヒトラーはなおもベルリンの門前で大打撃を与え、戦局が劇的に変わると言い続けていた。しかし4月22日の作戦会議で、ヒトラーはついに「戦争は負けだ」と語り、ベルリンで死ぬと宣言した[227]。しかしその後は態度を変化させ、再び指揮を執り始めた。しかしこれを受けて4月23日には、総統地下壕を脱出したカール・コラー空軍参謀総長が、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将の伝言を携えゲーリングの元を訪れる。ヨードルの伝言は「総統が自決する意志を固め、連合軍との交渉はゲーリングが適任だと言った」という内容だった。ゲーリングは不仲であったボルマンの工作を疑い、総統地下壕に1941年の総統布告に基づく権限委譲の確認を求めた電報を送る。電報を受け取ったボルマンは、「ゲーリングに反逆の意図がある」とヒトラーに告げた。これに激怒したヒトラーは、ゲーリングの逮捕と全官職からの解任、そして別荘への監禁を命じた。しかしシュペーアによると、この2時間後にヒトラーは「よろしい、ゲーリングに交渉をさせよう」とつぶやいたという。早期の降伏を考えていたシュペーアは、ゲーリングが降伏責任者となれば交渉で時間稼ぎをすると考え、飛行機に乗って連合軍と交渉しようとした際に備えて撃墜命令を出していた[228]
自殺詳細は「アドルフ・ヒトラーの死」を参照ヒトラーの死を伝える『星条旗新聞』号外

4月23日、赤軍がベルリン市内に突入した(ベルリン市街戦)。4月29日、親衛隊全国指導者ヒムラーが独断で英米に対し降伏を申し出たことがBBCで放送され、ヒトラーに最後の打撃を与えた。彼は激怒し、彼を全職責から解任するとともにその逮捕命令が出されたが、もはやその執行すらできない状態であった。

終末が近づいたことを悟ったヒトラーは、個人的、政治的遺書(英語版)の口述を行った。後者の中で戦争はユダヤ人に責任があるとした。そして大統領兼国防軍最高司令官職に海軍元帥カール・デーニッツ、首相にゲッベルス、ナチ党担当大臣にボルマンをそれぞれ指名した。さらに「国際ユダヤ人」に対する抵抗の継続を訴えた。

個人的遺書では愛人エヴァ・ブラウンとの結婚と、自殺後に遺体を焼却することを述べた。この遺書をタイプした秘書トラウドル・ユンゲにヒトラーは「ドイツ人は私の運動(ナチズム)に値しないことを自ら証明した」と語り、自らの政治活動が終焉したことを認めた[229]

遺書をタイプした後の午前2時[230][注 9]、エヴァと結婚式を挙げた。そして4月30日、毒薬の効果を確かめるため愛犬ブロンディを毒殺した後、午後3時にエヴァと共に自室に入り、自殺した。56歳没。

自殺の際ヒトラーは拳銃を用い(青酸カリを使ったとする説もある[231])、エヴァは毒を仰いだ。遺体が連合軍の手に渡るのを恐れ、140リットルのガソリンがかけられ焼却された。焼け残った遺体は後に赤軍が回収し、検死もソ連医師のみによるものだったこと、また側近らの証言も曖昧で矛盾したものが多かった為、長い間ヒトラーの死の詳細は西側諸国には伝わらなかった。これらのことが後年「ヒトラー生存説」が唱えられる原因となった。

ソ連によりヒトラーの死体は秘密裏に埋められたが、1970年に掘り起こされ、完全に焼却されたあとにエルベ川に散骨された。これらの情報は、冷戦終結後の1992年に旧ソ連のKGBと、後継組織であるロシアFSBに保管されていた記録が公開されたことによって明らかになった。
略年表

1889年(0歳):オーストリア・ハンガリー帝国の
ブラウナウ地方でバイエルン人税関吏アロイス・ヒトラーの4男として生まれる。

1895年(6歳):父アロイスの農業事業のためにバイエルン王国パッサウ地方に移住。

1897年(8歳):父の事業が失敗し、一家はオーストリアへ戻る。アロイスとヒトラーとの諍いが始まる。

1900年(11歳):小学校を卒業。大学予備課程(ギムナジウム)には進めず、リンツの実技学校(リアルシューレ)に入学する。

1901年(12歳):二年生への進級試験に失敗、留年

1903年(14歳):アロイス病没。リンツ実技学校中退。

1904年(15歳):シュタイアー実技学校入学。

1905年(16歳):シュタイアー実技学校中退。以後、正規教育は受けず。

1906年(17歳):遺族年金の一部を母から援助されてウィーン美術アカデミーを受験するも不合格。以降、下宿生活を続ける。

1908年(19歳):アカデミー受験を断念。下宿生活を終えて住居を転々とする。

1909年(20歳):住所不定の浮浪者として警察に補導される。独身者向けの公営住宅に入居。

1911年(22歳):遺族年金を妹に譲るように一族から非難され、仕送りが止まる。水彩の絵葉書売りなどで生計を立てる。

1913年(24歳):オーストリア軍への兵役回避の為に国外逃亡。翌年に強制送還されるが「不適合」として徴兵されず。

1914年(25歳):第一次世界大戦にドイツ帝国が参戦するとバイエルン軍に義勇兵として志願。

1918年(29歳):マスタードガスによる一時失明とヒステリーにより野戦病院に収監、入院中に第一次世界大戦が終結する。最終階級は伍長勤務上等兵。

1919年(30歳):革命中のバイエルンレーテに参加し、大隊の評議員となる。革命政権崩壊後、ミュンヘンを占領した政府軍に軍属諜報員として雇用され、ドイツ労働者党への潜入調査を担当する。

1920年(31歳):ドイツ労働者党の活動に傾倒し、軍を除隊。党は国家社会主義ドイツ労働者党に改名される。


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