アドルフ・ヒトラー
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なお、日本で最初に報道された際には「ヒットレル」と表記され(舞台ドイツ語の発音が基になっている)[21]、その後は「ヒットラー」という表記も多く見られた。
父母と兄弟「ヒトラーの家族(英語版)」も参照ブラウナウ・アム・インに現存するヒトラーの生家1898年から1905年までヒトラーが家族と住んだリンツ郊外レオンディングの家

父アロイスは義叔父の下で小学校(国民学校)を出た後、ウィーンへ靴職人として徒弟修行に出向いている。しかしウィーンに出たアロイスは下層労働者で終わる事を望まず、19歳の時に税務署の採用試験に独学で合格して公務員となった[22]。上昇志向が強いアロイスは懸命に働いて補佐監督官や監督官を経て最終的には税関上級事務官まで勤め上げたが、これは無学歴の職員としては異例の栄達であった。40年勤続で退職する頃には1100グルデン以上の年収という、公立学校の校長職より高い給与も勝ち取っていた。アロイスはこうした成功から人生に強い自尊心を持ち、親族への手紙でも「最後に会った時以来、私は飛躍的に出世した」と誇らしげに書いている[22]。また軍人風の短髪や貴族然とした厳しい髭面を好み、役人口調の気取った文章で手紙を書くなど権威主義的な趣向の持ち主であった[22]

アロイスは性に奔放な人物で、生涯で多くの女性と関係を持ち、30歳の時にはテレージアという自分と同じような私生児を最初の子として儲けており、生物学的には彼女がヒトラーの長姉となる[23]。1873年、36歳のアロイスは持参金目当てに裕福な独身女性の50歳のアンナ・グラスルと結婚したが、母マリアのような高齢出産しか望みのないグラスルとは子を儲ける事はなかった[23]。代わりにアロイスは召使で未成年の少女だったフランツィスカを愛人とし、1880年に事実を知った妻アンナからは別居を申し渡されたが、人目も憚らずフランツィスカを妻のように扱って同棲生活を送った。1883年、最初の妻アンナの死後にアロイスはフランツィスカと再婚して結婚前に生まれていた長男アロイス(ドイツ語版)を正式に認知、続いて結婚後に長女アンゲラ(ドイツ語版)を儲けた[24]。だがアロイスは既にフランツィスカへの興味を失いつつあり、新しい召使であったクララ・ペルツルを愛人にしていた。

クララの父はヨハン・バプティスト・ペルツル、母はヨハンナ・ペルツルという名前だったが、このうち母ヨハンナ・ペルツルの旧姓はヒードラーだった。彼女は他でもないアロイスの義叔父であり、実父とも考えられるヨハン・ネポムク・ヒードラーの娘であった[23]。もしアロイスがゲオルクの子であったとすればヨハンナとは従兄妹の間柄となり、ましてネポムクの子であればですらあった。その娘クララは従妹の子あるいは姪ということになる。クララはアロイスより23歳年下だった。フランツィスカはアンナの二の舞を恐れて結婚前にクララを家から追い出したが、フランツィスカが病気で倒れるとアロイスの手引きでクララは召使として再び入り込んだ[23]

1884年、フランツィスカが病没すると1885年1月7日に47歳のアロイスは24歳のクララと三度目の結婚を行った[24]。少なくとも法的には従妹である以上、結婚には教会への請願が必要であったので「血族結婚に関する特別免除」をリンツの教会に申請して、ローマ教皇庁から受理されている[24]。クララは結婚から5か月後に次男グスタフを生み、続いて1886年に次女イーダ、1887年に三男オットーを生んだが三子は幼児で亡くなっている。1889年、四男アドルフ(ヒトラー)が生まれ、長男アロイス2世とともに数少なく成人したヒトラー家の子となった。1894年に五男エドムント、1896年に三女パウラが生まれている。

また、上記にあるようにヒトラーの父のアロイスが婚外子ということで、ヒトラーが政権を把握すると彼自身が「ユダヤ系」ではないかと巷の噂が流布されたが、ヒトラーの死後の史家による徹底的な調査の結果、否定されている(下記も参照)[25]
生涯
幼少期
生い立ち幼少期の写真ヒトラー(最後列の中央)が10歳から11歳まで通った小学校の集合写真

1889年4月20日の午後6時30分、当時ヒトラー家が暮らしていたブラウナウにある旅館ガストホーフ・ツー・ボンマーでアロイス・ヒトラーとクララ・ヒトラーの四男として出生、2日後の4月22日にローマ・カトリック教会のイグナーツ・プロープスト司教から洗礼を受け、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)と名付けられた[26]。洗礼には叔母ハンニと産婆ポインテッカーの二人が立ち会っている[26]

ヒトラーが3歳の時に一家は別の家に引っ越して、ドイツ帝国バイエルン王国パッサウ市へ転居している[27][要文献特定詳細情報]。バイエルン・オーストリア語圏の内、オーストリア方言からバイエルン方言の領域へ移住したことになった。彼の用いるドイツ語には標準ドイツ語と異なる独特の「訛り」が指摘されるが、それはバイエルン人としての出自ゆえのことである[28][要文献特定詳細情報][29][要文献特定詳細情報][30][要文献特定詳細情報]。幼いヒトラーは西部劇に出てくるインディアンの真似事に興じるようになった。また父が所有していた普仏戦争の本を読み、戦争に対する興味を抱くようになった[31]。1895年、リンツに単身赴任していたアロイスが定年退職により恩給生活に入ると、一家を連れてハーフェルト村という田舎町に引越し、屋敷を買って農業と養蜂業を始めていた。ヒトラーはランバッハ(英語版)の郊外にあったフィッシュルハム(英語版)の国民学校(小学校)に通った。

1896年、異母兄アロイス2世が父との口論を契機に14歳で家から出て行き、二度とヒトラー家には戻らなかった[32]。異母弟ヒトラーや継母と折り合いが悪かった事も一因と見られている[32]。跡継ぎとなったヒトラーは1897年まで国民学校に在籍した記録が残っているが[33][34][要文献特定詳細情報]、フィッシュルハム移住後から学校の規律に従わない問題児として、ヒトラーも父と諍いを起こすようになった[35][要文献特定詳細情報]。1897年、父親の農業は失敗に終わり、一家は郊外の農地を手放してランバッハ市内に定住している。ヒトラーもベネディクト修道会系の小学校に移籍し、聖歌隊に所属するなどキリスト教を熱心に信仰して、聖職者になることを望んだ[36]。ベネディクト修道会の聖堂の彫刻には後にナチスのシンボルマーク章として採用するスワスチカが使われていた[37][要文献特定詳細情報]。本人によれば、信仰心というよりも華やかな式典や建物への憧れが強かったようである[38]

1898年、ランバッハからも離れてリンツ近郊のレオンディングにアロイスと一家は同地に定住したが、後年にヒトラーから生家を案内されたゲッベルス曰く「小さく粗末な家」であったという。弟エドムントが亡くなる不幸などを経て、次第にヒトラーは聞き分けの良い子供から、父や教師に口答えする反抗的な性格へと変わっていった[39]。感傷的な理由からではなく、単純にアロイス2世の家出もあってヒトラーが唯一の跡継ぎになってしまい、一層に父親からの干渉が増したからである。1899年、各地を転々としていたヒトラーは義務教育を終え、小学校の卒業資格を得た。


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