アドルフ・ヒトラーの死
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同日、ヒトラーは彼をすべての官職から解任したうえで逮捕令を出した[15]

4月23日、赤軍がベルリン市内に突入した。ベルリンの外でも、4月25日にエルベ河畔のトルガウでアメリカ軍と赤軍が邂逅、東西の戦線が繋がった。4月27日の時点で、ベルリンはドイツのほかの地域から遮断されていた。防衛部隊との間の安定した無線通信も失われており、国防軍最高司令部(OKW)は気球を打ち上げての短波通信に頼らざるを得ず、総統地下壕の司令官は電話回線を用いて指示・命令を下すことを強いられていた。同様に、ニュースや情報の入手は公共のラジオ放送に頼らざるを得ない状況だった[16]。4月28日、ロイター通信発のBBCのニュース報道が地下壕で傍受され、その内容のコピーがヒトラーのもとに届けられた[17]。この報道で、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが、西側連合国に対して独自に降伏を提案したが拒絶されたこと、ならびに彼が自らにドイツの降伏交渉を行う権限があると連合国側にほのめかしていたことが伝えられていた。ヒトラーはこれを自分に対する重大な反逆とみなし、同日の午後には抑えられない怒りと苦々しさから、ヒムラーに対する罵詈雑言を怒鳴り散らした[18]。ヒトラーは直ちにヒムラーの逮捕令を出し、総統大本営における彼の連絡将校であったヘルマン・フェーゲラインSS中将を逮捕・銃殺刑に処した[19]。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}総統地下壕の地上出入り口(1947年、取り壊し直前に撮影)取り壊された総統地下壕の一部(1947年)

この時点で、赤軍はポツダム広場にまで進出しており、総統官邸への強襲が目前に迫っているという兆候が観察されていた。この危機的状況と、最後まで信じていたヒムラーおよび親衛隊にまで裏切られた形になった事に最後の衝撃を受け、ヒトラーは人生の最期についていくつかの決定を下したと考えられる[20]。ヒトラーはエヴァと結婚することを決め、4月28日の深夜、 2人は総統地下壕の地図室でささやかな人前結婚式を挙げた[21]。結婚式のあと、ヒトラーは妻となったエヴァとともに簡素な結婚披露宴を催した。その後、秘書官のトラウデル・ユンゲを連れて別室に移動し、自身の遺言(英語版)を口述したとアントニー・ビーヴァーは考察している。午前4時、ヒトラーは遺言の書類に署名し床に就いた。なお、記録によってはヒトラーが遺書を口述したのは結婚式の直前だということになっているが、いずれにしても、サインのタイミングについては一致している[注釈 1][注釈 2]。結果的にヒトラーとエヴァが正式な夫婦として生活したのは、40時間に満たなかった。

4月29日、ヒトラーは同盟国イタリア社会共和国の指導者ベニート・ムッソリーニがパルチザンに捕らえられ処刑され、死体が逆さ吊りにされた(ベニート・ムッソリーニの死)ことを知った。この出来事は、ヒトラーが遺言の中でも言及していた決意、つまり自分たちは死後に晒し者にはなりたくないという恐れをさらに強固にした可能性が高い[22]。同日午後、ヒトラーはシアン化物カプセルが偽物ではないかと疑い始めた[23]。カプセルの有効性を確かめるために、ヒトラーはハーゼに命じて愛犬ブロンディにカプセルを飲ませ、その死を確認した[24]

4月30日午前1時までに、ヒトラーがあてにしていたベルリン救援のためのドイツ軍部隊が、すべて包囲されるか守勢に立たされていることがOKW総長ヴィルヘルム・カイテル元帥によって報告された[25]。4月30日の朝遅くには、赤軍が総統地下壕から500メートルも離れていない場所にまで迫り、ヒトラーはベルリン防衛軍司令官のヘルムート・ヴァイトリング砲兵大将と会談を持った。彼はベルリン防衛軍の弾薬がおそらく夜には尽きるであろうこと、ベルリンでの戦闘行為は24時間以内に停止せざるを得ないことをヒトラーに告げた[25]。同時にヴァイトリングはヒトラーに脱出の許可を願い出た。彼は以前にも脱出許可を願い出て却下されていた。しかし彼からの回答が得られなかったため、彼はベンドラーブロック(ドイツ語版)(官庁街)にある本部に戻った。同日13時ごろ、ヴァイトリングは夜を待って脱出を試みることについてヒトラーからの許可を得た[26]
自殺ヒトラーの死の時点におけるヨーロッパ戦線の状況。
白:ナチスの統制下
ピンク:連合国の統制下
赤:戦闘継続中
灰色:中立国

4月30日の昼、ヒトラーは秘書官ユンゲとゲルダ・クリスティアン、専属料理人のコンスタンツェ・マンツィアーリーの4人で最後の食事となる昼食をとった。献立は野菜のスープとマッシュポテトであったとも[27]ラビオリであったとも言われている。食事を終えたヒトラーとエヴァは、地下壕のスタッフや、ゲッベルス一家やマルティン・ボルマン一家、秘書官や国防軍の将校らに最後の別れを告げた。

14時30分ごろ、ヒトラーとエヴァは執務室の奥にある居間に入っていった[26][28]。「15時30分ごろに大きな銃声を聞いた」と、複数の証人がのちに伝えている。

数分待って、ヒトラーの護衛係であった総統警護隊ハインツ・リンゲSS中佐が、ボルマンの立ち合いのもと居間のドアを開けた[29]。すぐに焦げたアーモンドの匂いに気付いたと、リンゲはのちに証言している。これは青酸(シアン化水素水溶液)の一般的な特徴として知られている[29]。ヒトラーの副官のオットー・ギュンシェSS少佐が居間に入り、ソファに腰かけた2人の死体を確認した。エヴァの死体はヒトラーの左手にあり、膝を胸に抱え込んだ姿勢で、彼から遠ざかるように倒れていた。ヒトラーの死体の状態についてギュンシェは「ぐったりと座っており、右のこめかみからは血が滴っていた。彼はワルサーPPK7.65で自らを撃ったのだ」と述べた[29][30][31]。今日では、ヒトラーはまずシアン化物(青酸カリ)のカプセルを噛み砕き、すぐに右のこめかみをピストルで撃ったものと考えられている[32]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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