アドルフ・ヒトラーの死
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5月1日午前4時、陸軍参謀総長ハンス・クレープス大将が、条件つき降伏を模索するために第8親衛軍司令官ワシーリー・チュイコフ大将と会っており、その際にクレープスはチュイコフにヒトラー死亡の情報を伝えた[52][53]。スターリンはドイツの無条件降伏を要求し、さらにヒトラーが死亡したことを確認するよう求めた。スターリンは赤軍の防諜部隊スメルシに、ヒトラーの死体を発見するよう命じた[54] 。5月2日の早朝、赤軍は総統官邸を制圧した[55]。官邸地下の総統地下壕では、クレープス大将とヴィルヘルム・ブルクドルフ大将が頭部を撃ち抜いて自殺した[56]。同日、スメルシの指揮官イワン・クリメンコがヒトラーの死体の捜索を始め、午後5時、ゲッベルス夫妻の焼け焦げた死体を見つけた[57]

5月4日、クリメンコは、ヒトラーとエヴァ、そして犬2匹(ブロンディとその子ヴルフと考えられている)のひどく焼けた死体を発見した[58]。ヒトラーらの亡骸は砲弾のクレーターに埋もれており、翌日に掘り起こされた[59][60]。スターリンはヒトラーの死を確信するのに慎重を期しており、その情報を公に発表することを禁止した[61][62]。1945年5月11日までに、ヒトラーの歯科医フーゴ・ブラシュケ(英語版)、歯科助手のケーテ・ホイザーマン、歯科技師のフリッツ・エヒトマンらにより、クレーターから回収された歯の残骸がヒトラーとエヴァのものであることが確認され、回収された下顎(歯の治療跡があった)が、ヒトラーのものであることが証明された[63][64]。公式な検死報告書には、銃弾によるヒトラーの頭蓋骨の損傷、口腔内のガラス破片の両方について記録されており、スターリン自身が1945年に認可したが、彼は大敵の死を容易には信じようとしなかった[65][66]。ヒトラーとエヴァの遺骸は、スメルシによって埋めたり掘り出されたりを繰り返した。ヒトラーらの遺骸は当初、1945年6月上旬にベルリン西方の森に墓標なしで埋められたが、その後再び掘り出され、最初の埋葬から8か月後、マクデブルクの赤軍駐屯地に秘密裏に埋葬された[67]変装して逃走するヒトラーの想像図(アメリカのシークレットサービスが1944年に作成し、1945年にドイツ全土で貼り出された)

政治的な目的から、ソ連はヒトラーの運命について諸説を発表した[68][69]。1945年以降の数年間、ソ連はヒトラーが逃走して生存しており、西側諸国によって保護されていると主張していた[68] 。このようなソ連の策略により、西側関係者の間にもヒトラーの生死について一時的な混乱がもたらされた。ニュルンベルク裁判におけるアメリカの検事トーマス・J・ドッド(英語版)は、「ヒトラーが死んだと言い切ることは誰にもできない」と述べた。ポツダム会談中の1945年8月、アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンはスターリンに「本当にヒトラーは死んだのか」と質問したが、彼はぶっきらぼうに「ノー」とだけ返答した。1945年11月、ベルリンのイギリス占領地区における防諜部門のトップであったディック・ホワイト(英語版)は、部下のヒュー・トレヴァー=ローパーにヒトラーの死についての調査を行うよう命令し、ソ連のヒトラーが西側で生存しているという主張への反証を試みた。トレヴァー=ローパーによる調査の成果は1947年に本として出版された[70]

当時唯一のドイツの同盟国であった日本政府は、同盟国の最高指導者であるヒトラー自殺の報を、5月2日ノルウェーオスロのドイツ兵隊放送でヒトラーの死を知った駐日ドイツ大使館からの報告で知ることとなった[71]。日本政府は同盟国の最高指導者として当然行うはずの公的な弔意表明や半旗の掲揚は一切行わず、自殺という道を選んだヒトラーに対する軽蔑が表れていた[71]。日本政府は、ラジオでヒトラーの死を伝えるとともに、同時にデーニッツが国家元首の座に就いたことと、東郷茂徳外務大臣が「ドイツは三国同盟に違反した」ことを述べるにとどまった。


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