アドルフ・ヒトラーの死
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14時30分ごろ、ヒトラーとエヴァは執務室の奥にある居間に入っていった[26][28]。「15時30分ごろに大きな銃声を聞いた」と、複数の証人がのちに伝えている。

数分待って、ヒトラーの護衛係であった総統警護隊ハインツ・リンゲSS中佐が、ボルマンの立ち合いのもと居間のドアを開けた[29]。すぐに焦げたアーモンドの匂いに気付いたと、リンゲはのちに証言している。これは青酸(シアン化水素水溶液)の一般的な特徴として知られている[29]。ヒトラーの副官のオットー・ギュンシェSS少佐が居間に入り、ソファに腰かけた2人の死体を確認した。エヴァの死体はヒトラーの左手にあり、膝を胸に抱え込んだ姿勢で、彼から遠ざかるように倒れていた。ヒトラーの死体の状態についてギュンシェは「ぐったりと座っており、右のこめかみからは血が滴っていた。彼はワルサーPPK7.65で自らを撃ったのだ」と述べた[29][30][31]。今日では、ヒトラーはまずシアン化物(青酸カリ)のカプセルを噛み砕き、すぐに右のこめかみをピストルで撃ったものと考えられている[32]

自殺に使われたピストルはヒトラーの足元に落ちていた[29]。彼の頭から滴った血が、居間の床に血だまりをつくっていた[33][34]。総統護衛部隊員のローフス・ミシュSS曹長によれば、ヒトラーの頭部は前方のテーブルの上に横たわっていたという[35]。リンゲの証言では、エヴァの死体には外傷が見当たらず、その顔からはシアン化物を用いて服毒自殺したことが見て取れた[注釈 3]

ギュンシェが居間を出て、ヒトラーの死を地下壕に残る人々に発表した。その後すぐに、人々は煙草をふかし始めた(ヒトラーは生前喫煙を嫌悪し、許可しなかった[36][37][38])。ヒトラーの生前の指示に従い、2人の死体は地上階に運ばれ、地下壕の非常口を経て、総統官邸裏の中庭に開いた砲弾孔に降ろされたあと、燃やすためにガソリンを浴びせかけられた[39][40]。ミッシュは、誰かが「早く上階へ急げ、彼らはボスを燃やしている」と叫んだのを聞いたと証言している[35]。何度かガソリンへの点火に失敗したあと、リンゲはいったん地下壕に戻り、厚く巻かれた紙を持って帰ってきた。その後、ボルマンが紙に火をつけ、それを死体の上に投げた。燃え上がったヒトラーとエヴァの死体に向けて、地下壕出入り口のすぐ内側からボルマン、ギュンシェ、リンゲ、ゲッベルスのほか、ヒトラー専属運転手エーリヒ・ケンプカSS中佐、RSD刑事部長ペーター・ヘーグルSS中佐、総統護衛部隊員のエヴァルト・リンドロフ(英語版)SS大尉とハンス・ライザーSS中尉らがナチス式敬礼で送った[41][42]。16時15分ごろ、リンゲはハインツ・クリューガーSS少尉とヴェルナー・シュヴィーデルSS曹長に、ヒトラーの居間の絨毯を巻き上げて燃やすよう命じた。シュヴィーデルは居間に入った瞬間、ソファのひじかけ付近に「大きな皿」ほどの大きさの血だまりがあるのが目に入ったとのちに語っている。シュヴィーデルは、空の薬莢がひとつ、絨毯の上にピストルから1ミリほど離れて落ちているのに気づき、かがんで薬莢を拾い上げた[43]。2人は血痕のついた絨毯を回収すると、総統官邸の中庭まで運び、その場で燃やした[44]

その日の午後を通して、赤軍は断続的に総統官邸の付近を砲撃していた。ヒトラーらの遺体をさらに燃やすため、親衛隊員が追加のガソリン缶を運んできた。リンゲによれば、燃やしたのが屋外であったため、2人の亡骸を完全に燃やし尽くすことはできなかったとしている[45]。遺体の焼却は16時から18時30分にかけて行われた。18時30分ごろ、リンドルフとライザーが燃え残った2人の亡骸を掩蔽した[46]
余波エヴァ・ブラウンとヒトラー、愛犬ブロンディ(1942年6月)

5月1日、ラジオ局「帝国放送局ハンブルク」(Reichssender Hamburg)は通常の放送を中断し、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」第四部「神々の黄昏」の演奏を流し、その合間にまもなく重大放送が発表されるとアナウンスした。その後、ブルックナーの「第七交響曲」が流されたあと、アナウンサーが総統大本営発表としてヒトラーが総統官邸で戦死し、遺言で後継者にカール・デーニッツ海軍元帥を指名したことを発表した[47]。デーニッツはドイツ国民に総統の死を悼むよう要求し、ヒトラーは首都を防衛するため英雄的な死を遂げたと述べた[48] 。この放送の際に、地下放送局のものらしい「ウソだ」との声が一瞬割り込んでいる。デーニッツの演説が終わると、ドイツ国歌とナチス党歌「旗を高く掲げよ」が演奏され、その後にデーニッツによる「全軍に対する布告」が放送され、兵士が存在する限りボリシェヴィキ(ソ連軍)との戦闘を継続し、総統への忠誠は自分に引き継がれるとして、将兵の義務を果たすよう求め、義務を放棄するものは卑怯者であり、裏切り者であると呼びかけた[49]

この「全軍に対する布告」は可能な限りの通信手段を用いて各部隊に伝達された。軍と国家を維持するため、デーニッツは西部での英米への部分降伏を画策し、東部のドイツ軍部隊を西方に移動した。この結果、約180万人ものドイツ軍将兵が赤軍の捕虜になることを回避することができた。デーニッツの方策は一定の成功を収めたが、一方で戦闘は5月8日まで継続されることとなり、人的被害は拡大した[50]

死から13時間が経過した5月1日の朝、スターリンはヒトラーの自殺を知った[51]。5月1日午前4時、陸軍参謀総長ハンス・クレープス大将が、条件つき降伏を模索するために第8親衛軍司令官ワシーリー・チュイコフ大将と会っており、その際にクレープスはチュイコフにヒトラー死亡の情報を伝えた[52][53]。スターリンはドイツの無条件降伏を要求し、さらにヒトラーが死亡したことを確認するよう求めた。スターリンは赤軍の防諜部隊スメルシに、ヒトラーの死体を発見するよう命じた[54] 。5月2日の早朝、赤軍は総統官邸を制圧した[55]


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