アドルフ・ヒトラーの死
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その後、ブルックナーの「第七交響曲」が流されたあと、アナウンサーが総統大本営発表としてヒトラーが総統官邸で戦死し、遺言で後継者にカール・デーニッツ海軍元帥を指名したことを発表した[47]。デーニッツはドイツ国民に総統の死を悼むよう要求し、ヒトラーは首都を防衛するため英雄的な死を遂げたと述べた[48] 。この放送の際に、地下放送局のものらしい「ウソだ」との声が一瞬割り込んでいる。デーニッツの演説が終わると、ドイツ国歌とナチス党歌「旗を高く掲げよ」が演奏され、その後にデーニッツによる「全軍に対する布告」が放送され、兵士が存在する限りボリシェヴィキ(ソ連軍)との戦闘を継続し、総統への忠誠は自分に引き継がれるとして、将兵の義務を果たすよう求め、義務を放棄するものは卑怯者であり、裏切り者であると呼びかけた[49]

この「全軍に対する布告」は可能な限りの通信手段を用いて各部隊に伝達された。軍と国家を維持するため、デーニッツは西部での英米への部分降伏を画策し、東部のドイツ軍部隊を西方に移動した。この結果、約180万人ものドイツ軍将兵が赤軍の捕虜になることを回避することができた。デーニッツの方策は一定の成功を収めたが、一方で戦闘は5月8日まで継続されることとなり、人的被害は拡大した[50]

死から13時間が経過した5月1日の朝、スターリンはヒトラーの自殺を知った[51]。5月1日午前4時、陸軍参謀総長ハンス・クレープス大将が、条件つき降伏を模索するために第8親衛軍司令官ワシーリー・チュイコフ大将と会っており、その際にクレープスはチュイコフにヒトラー死亡の情報を伝えた[52][53]。スターリンはドイツの無条件降伏を要求し、さらにヒトラーが死亡したことを確認するよう求めた。スターリンは赤軍の防諜部隊スメルシに、ヒトラーの死体を発見するよう命じた[54] 。5月2日の早朝、赤軍は総統官邸を制圧した[55]。官邸地下の総統地下壕では、クレープス大将とヴィルヘルム・ブルクドルフ大将が頭部を撃ち抜いて自殺した[56]。同日、スメルシの指揮官イワン・クリメンコがヒトラーの死体の捜索を始め、午後5時、ゲッベルス夫妻の焼け焦げた死体を見つけた[57]

5月4日、クリメンコは、ヒトラーとエヴァ、そして犬2匹(ブロンディとその子ヴルフと考えられている)のひどく焼けた死体を発見した[58]。ヒトラーらの亡骸は砲弾のクレーターに埋もれており、翌日に掘り起こされた[59][60]。スターリンはヒトラーの死を確信するのに慎重を期しており、その情報を公に発表することを禁止した[61][62]。1945年5月11日までに、ヒトラーの歯科医フーゴ・ブラシュケ(英語版)、歯科助手のケーテ・ホイザーマン、歯科技師のフリッツ・エヒトマンらにより、クレーターから回収された歯の残骸がヒトラーとエヴァのものであることが確認され、回収された下顎(歯の治療跡があった)が、ヒトラーのものであることが証明された[63][64]。公式な検死報告書には、銃弾によるヒトラーの頭蓋骨の損傷、口腔内のガラス破片の両方について記録されており、スターリン自身が1945年に認可したが、彼は大敵の死を容易には信じようとしなかった[65][66]。ヒトラーとエヴァの遺骸は、スメルシによって埋めたり掘り出されたりを繰り返した。ヒトラーらの遺骸は当初、1945年6月上旬にベルリン西方の森に墓標なしで埋められたが、その後再び掘り出され、最初の埋葬から8か月後、マクデブルクの赤軍駐屯地に秘密裏に埋葬された[67]変装して逃走するヒトラーの想像図(アメリカのシークレットサービスが1944年に作成し、1945年にドイツ全土で貼り出された)

政治的な目的から、ソ連はヒトラーの運命について諸説を発表した[68][69]。1945年以降の数年間、ソ連はヒトラーが逃走して生存しており、西側諸国によって保護されていると主張していた[68]


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