古典の原典でアトランティスに言及しているのは、『ティマイオス』『クリティアス』だけで、アトランティスの伝説はプラトン以前に遡ることはできない[29]。 アリストテレスは、師のアトランティスの物語を想像による架空の話と考え、プリニウスやストラボンを始めとする古代ギリシャ、ローマの知識人も、アトランティスの実在を疑問視していた。
初めて『ティマイオス』の注釈書を書いたクラントル
(英語版)(紀元前335-375頃)など、一部真実だと考える人もいた。しかし、彼の考えはプラトンの記述が文字通りの真実であるという信念に基づく飛躍したものであり、彼以降のプラトンの注釈者たちは、誰もこの説を信じてはいない。クラントルの注釈書は散逸し、後世のプロクルス(410/412-485)の著作に引用の断片があるのみである。プロクルスもアトランティスの実在を信じていない。[30]アトランティス学の支持者たちは、クラントルは古代エジプト人がサイスの神殿の円柱に刻んだアトランティスの記録を確認したとして、プラトンとは別にアトランティスの実在を裏付ける情報として盛んに引用しているが、これはプロクルスの文章の誤訳に基づく誤解に過ぎないと考えられている[30]。
クラントル以降の古代ヨーロッパで実在を信じたのはプルタルコスだけであるが、彼は特段新しい情報を提示しておらず、基本的にプラトンの記述の繰り返しに過ぎない[30]。プルタルコスの『対比列伝』の「ソロン伝」によると、ソロンはアテナイで改革を行った後、海外を10年間旅し、エジプトで神官から失われたアトランティスの物語を聞いたという[31]。このアトランティスの伝説、とりわけアテナイ人の関わる神話(ロゴス[† 6]とミュトス[† 7])についてソロンは執筆を始めたが結局中止してしまった[32]。プルタルコスは、ソロンの血縁者であったプラトンはアトランティスの物語を書き上げようとしたが完成前に亡くなり、本当に残念なことだと感想を述べている[33]。
クラウディウス・アエリアヌスは『動物の特性について』の中で、大洋近くに住む住民に伝わる寓話として、ポセイドンの子孫であるアトランティスの王達は王の権威の象徴であるクリオスの雄の皮で作られた帯を頭に巻き、王妃達はクリオスの雌の巻き毛を身に付けていたという話を紹介している[34]。
大プリニウスは『博物誌』でプラトンのアトランティス島沈没の話に触れ、これとは別に、アトランティスという名前の島がアトラス山脈の沖合いに現存していることを示唆している[19]。バチカン図書館所蔵 カルキディウス著『ティマエウス注解』
『ティマイオス』は400年頃にカルキディウス(4世紀-5世紀)によってラテン語に翻訳された。前1世紀のキケロによるラテン語訳が散逸したのと異なり、こちらはアトランティス伝説の部位を含む大部分のテキスト[35]が現存する[36][注 6]。
新プラトン主義者のプロクロスは『ティマイオス注解』を残しているが、当時の多くの人々はプラトンの記述が寓話であると考えており、アパメイアのヌメニオス、アメリオス(英語版)、オリゲネス、カッシオス・ロンギノス(英語版)、ポルピュリオス、カルキスのイアンブリコス、シュリアノスなどの解釈が紹介されている[37]。 中世初期のヨーロッパで読むことのできたプラトンの著作は、『ティマイオス』だけだった[38]。中世の知識人にとって、プラトンのアトランティスの記述は『ティマイオス』の中の一遍の物語に過ぎず、注目されなかった[38]。 西ローマ帝国の崩壊で、西ヨーロッパの文化・学芸は衰退した。元エジプト商人で、ネストリウス派の修行僧になったコスマス・インディコプレウステースは、時代の流れに逆行して大地は平面であると主張し[39]、また『キリスト教地誌』の中で『ティマイオス』の記述を引用し、アトランティス島の沈没はノアの大洪水のことであり、おそらくティマイオスはカルデア人から世界最初の歴史家であるモーセの書を知りアトランティスの逸話を創作して付け加えたのだと主張した[40]。これ以外に、中世西ヨーロッパの教養ある聖職者で、アトランティスに関心を示した人はほとんどいない[39]。 この時代よりプラトンを含む古代ギリシアの思想は反キリスト的とみなされ、アトランティス伝説も12世紀中頃のホノリウスの著作までしばし忘れ去られた。
中世