アトランタ
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経済面での国際的な影響力に加え、「世界で最も忙しい空港」と呼ばれるハーツフィールド・ジャクソン・アトランタ国際空港[4] を擁し、1996年の夏季オリンピック開催地としても世界的な知名度を有するアトランタは、2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス人材文化政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第36位の都市と評価された[5]

アトランタは南部特有の夏の蒸し暑さと冬の温暖さから、「ホットランタ」(Hotlanta) という異名をつけられている。アトランタの南、メーコンを拠点として活動しているバンド、オールマン・ブラザーズ・バンドは、1971年にこの異名を取った「ホットランタ」(Hot 'Lanta) という楽曲を発表した。アトランタの住民は「アトランタンズ」(Atlantans) と呼ばれている。
歴史
市の創設と初期1815年頃のインディアン・トレイルが示されたアトランタ周辺の地図(ただしフルトン郡境とアトランタ市境は19世紀後半のもの)

現在アトランタという都市が存在しているこの地には、古くはスタンディング・ピーチツリーと呼ばれる、ネイティブ・アメリカンの村があった。1822年チェロキー族とクリークス族がヨーロッパ人入植者に土地を割譲し、この地にディケーターという名の入植地が建設された。その後間も無く非公式の取引所がヨーロッパ人の入植地へと発展し、スラッシャービルと名付けられた。

1836年12月21日にジョージア州議会はこの地と中西部との通商ルートを提供するため、アパラチア山脈を越えてテネシー州チャタヌーガへと通ずるウェスタン・アンド・アトランティック鉄道の建設案を可決した[6]。一方、この一帯に住み着いていたチェロキー族は、1830年に成立したインディアン移住法の結果、強制移住によって土地を追われた。ネイティブ・アメリカンの去った土地には、鉄道を敷く余地が残された。1842年、マーサズビル (Marthasville) と名を変えたこの町には6棟の建物が建ち、30人の住民が住んでいた[7]。その後も幾度か町名が変わった後、ジョージア鉄道の主任技術者エドガー・J・トムソンは、この地をアトランティカ・パシフィカ (Atlantica-Pacifica) という名に変えることを提案した。この名はすぐに「アトランタ」に縮められた[7]。住民はこの名に賛同し、1847年12月29日、町はアトランタという名で正式な町になった[8]1854年には、アトランタとジョージア州西部、アラバマ州との州境近くの町ラグレンジとを結ぶ鉄道が開通した[9]1860年には、町の人口は9,554人へと増えた[10]
南北戦争と再建

南北戦争時には、アトランタは鉄道交通・軍需品供給の中心地として重要な地であった。1864年5月、テネシーから州境を越えた北軍は、勝利を重ねながらアトランタを目指して南へと軍を進めた。ピーチツリークリークの戦いアトランタの戦い、エズラ教会の戦いなど、アトランタ方面作戦[11] と呼ばれるこれら一連の戦いにおいて、アトランタとその周辺、特に北側の地域は激しい戦闘の繰り広げられる戦場と化した。1864年9月1日に南軍ジョン・ベル・フッド将軍はアトランタから逃れ、ついにアトランタは陥落した。逃亡に当たって、フッドは全ての公共の建物・南軍の資産を破壊するように命じた。翌9月2日にジェームズ・カルホーン市長は市を明け渡した。9月7日には北軍のウィリアム・シャーマン将軍は民間人に対し市外への避難命令を出した。次いで11月11日にはシャーマンはさらに南への進軍に当たって、教会病院を除いて、アトランタの町を全て焼き払うように命じた[12]アトランタ方面作戦(赤: 南軍, 青: 北軍)

南北戦争が終わると、やがて市の再建が始まった。1867年から1888年にかけては、レコンストラクションを確実なものにするため、アメリカ合衆国陸軍がアトランタの南西に立地するマクファーソン兵舎を占拠した。奴隷の身分から解放され、自由の身となったアフリカ系アメリカ人の助けとなるため、解放黒人局はアメリカ伝道師教会 (American Missionary Association, AMA) をはじめとする解放黒人支援団体と協力体制を築いた。AMAは1866年、ストアーズ・スクールおよびサマー・ヒル・スクールという、アフリカ系の生徒のための学校を2校設立した。これらの学校は1872年にアトランタ公立学区に組み入れられた。また、AMAはアフリカ系教師養成の一環として、1865年にアトランタ大学(現在のクラーク・アトランタ大学)も設立した。アトランタ大学は Historically Black College と呼ばれる、アフリカ系市民に高等教育の機会を与えるために設立された大学としては、アトランタで初めて設立されたもののうちの1校である。ウォッシュバーン孤児院を設立したのもAMAであった。アトランタ第一会衆派教会 (The First Congregational Church of Atlanta) は、北部の白人、AMA、アトランタの解放黒人の協働によって生まれた。

一方、南北戦争後のアトランタの経済的な再建に寄与したのは綿花産業であった。1838年までは、この一帯では綿花は主要産品ではなかった。しかし、1870年代半ば頃までには、綿花はアトランタ地域経済において鍵となる農産品としての地位を得ていた[13]


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