第二次世界大戦中には、郊外のマリエッタにあったベル・エアクラフトの工場など製造業、特に軍需産業が発展し、市の人口と経済の発展に大きく寄与した。第二次世界大戦が終わった翌年、1946年には、疾病予防管理センター (Centers for Disease Control and Prevention, CDC) が設立された[22]。
1954年、連邦最高裁判所がブラウン対教育委員会裁判において、公立学校における人種分離はアメリカ合衆国憲法修正第14条に反するとした判決を下すと、アトランタでも人種差別撤廃への機運が高まっていった。アトランタにおける人種間の緊張はより暴力的手段に訴えるものに変わっていった。1958年10月12日、ピーチツリー・ストリート沿いに建つユダヤ教の寺院が爆破されるという事件が起こった。このシナゴーグのラビであったジェイコブ・ロスチャイルドは人種統合の擁護者であった[23]。この事件は、自らを「南部連合の地下組織」と呼ぶ反セム派の白人たちによるものであるとされた。
1960年代に入ると、アトランタは公民権運動の中心地の1つになった。アトランタにおける公民権運動では、マーティン・ルーサー・キング牧師に加えて、地元のアフリカ系の学生たちがリーダー的な役割を果たした。公民権運動において最も重要な役割を果たした団体のうち、南部キリスト教指導者会議 (Southern Christian Leadership Conference) と学生非暴力協力委員会 (Student Nonviolent Coordinating Committee) の2つはアトランタに本部を置いていた。しかし、公民権運動の最中における数々の抗議にもかかわらず、アトランタの政治・経済のリーダーは「憎む間も無いほど忙しい都市」というイメージを作り上げていた。1961年、市長アイバン・アレン・ジュニアは、その当時の南部の白人市長としては珍しく、公立学校における差別撤廃を擁護する側に立っていた[24]。1996年、アトランタは夏季オリンピックの開催地として世界を迎え入れた。
1973年にはメイナード・ジャクソンが市長に当選し、南部の主要都市では初となる、アフリカ系の市長誕生となった。20世紀後半においては、アフリカ系の住民はアトランタの人口構成における多数派となった。しかしその後、郊外化、物価の高騰、地域経済の発展によって新たな住民が流入し、アトランタの総人口のうちアフリカ系が占める率は1990年に66.8%に達したのをピークに減少し、2000年代中盤では50%台に落ち込んでいる。また、新たにアトランタに流入してきた住民の中にはラテン系やアジア系もおり、アトランタにおける人種構成は多様性を増してきている[25]。
1990年、アトランタは1996年夏季オリンピックの開催地に選定された。アメリカ合衆国の都市としてはアトランタはセントルイス(1904年)、ロサンゼルス(1932年・1984年)に続いて、3番目となる開催都市であった。オリンピック開催の告知に続いて、アトランタでは市の公園、スポーツ施設、および交通網の整備など、大規模な建設プロジェクトが進んだ。しかし市がオリンピックに沸く一方で、9,000人ものホームレスが不当に逮捕されたり[26]、オリンピック関連施設の建設用地確保のためにスラムが取り壊されたり[27] と、貧困層はしわ寄せを受けた形となった。会期中の7月27日には、センティニアル・オリンピック・パークで爆破事件が起こった[27]。 アトランタは北緯33度45分18秒 西経84度23分24秒 / 北緯33.75500度 西経84.39000度 / 33.75500; -84.39000
地理
アトランタの市街はチャッタフーチー川南岸の丘陵上に広がっている。東部分水嶺はちょうどアトランタを通っている。分水界は市の南からダウンタウンまで北上し、ダウンタウンからはデカル・アベニューとCSXの線路に沿って東へと方向を変える[28]。そのため、アトランタ市南部や東部に降った雨は大西洋へと流れていくのに対し、市北部や西部に降った雨はメキシコ湾へと流れていく[28]。
このうちメキシコ湾に注ぐほうである、市の北西を流れるチャッタフーチー川の河岸は、川の自然がまだ多く残されており、チャッタフーチー川国立レクリエーションエリアに指定されている。しかしその下流では、渇水時の過剰取水や増水時の汚染などが、対岸のアラバマ州や河口近くのフロリダ州との間で、法的な諍いの元ともなっている[29][30]。