アトランタの戦い
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北軍の損失は3,641名であり、南軍は8,500名だった[1]。これは既に勢力が落ちていた南軍にとって気の遠くなるような損失だったが、アトランタ市は保持し続けた。シャーマンはアトランタ市に対して包囲戦を布き、市内を砲撃すると共に市の西と南のメイコンから来る補給線を遮断する襲撃隊を送った。最終的に8月31日、シャーマン軍がジョーンズバラでメイコンからの鉄道を占領し、南軍をラブジョイ駅方向に押し込んだ。ジョーンズバラの北軍は夜中アトランタから爆発音を聞くことになったが、これはフッドが翌日アトランタから兵を退くために、補給庫が北軍の手に落ちないよう破壊していたからだった(この火事のシーンが1939年の映画『風と共に去りぬ』に描かれた)。9月2日アトランタ市長ジェイムズ・カルフーンの委員会で北軍の肩を持つ市民であるウィリアム・マーカム、ジョナサン・ノアクロスおよびエドワード・ローソンが北軍ヘンリー・W・スローカム少将の参謀である大尉に会って、市の降伏を申し入れた[2]。シャーマンはワシントンに電報を打ち、「アトランタは我々のものであり、完全な勝利だ」と伝え、9月7日には市内に作戦本部を作り、そこに2ヶ月間滞在した。市民全員にも退去を命じた。それから軍隊は地上にある全ての建物を焼き、シャーマンの海への進軍と呼ばれることになる東方への進軍を始めた。

アトランタの陥落はその政治的影響で特に注目された。1864年アメリカ合衆国大統領選挙では元北軍将軍のジョージ・マクレランが平和を綱領にしてリンカーン大統領に挑戦していた。民主党綱領の一部はアメリカ連合国との休戦を要求していた。この休戦が実現しておれば、戦争が再開される可能性は非常に小さかったであろう。しかし、アトランタの占領と、フッド軍が退散のときに主要な軍事施設を燃やしたことは北部の新聞で大きく報道され、著しく北部の士気を高めた。リンカーンはかなりの差を付けて再選された。

アトランタの戦場跡は現在市内居住地と商業地になっており、戦闘の歴史を伝える表示がわずかに残されているだけである。2004年に戦闘から140周年を記念して、インマン公園の近傍に2つの標識が立てられた。L字形の戦線はおおまかに現在のリトルファイブ・ポイントと州間高速道路20号線の間のモアランド・アベニューが南北の線であり、州間高速道路20号線は東西の線でハーディ軍団が攻撃したところである。アトランタ・サイクロラマには戦闘の絵画と博物館が入っている。
脚注^ a b c Kennedy, p.340.
^Upper Marietta Street Artery website

関連項目

アトランタ方面作戦

西部戦線 (南北戦争)

参考文献

Foote, Shelby, The Civil War, A Narrative: Red River to Appomattox, Random House, 1974,
ISBN 0-394-74913-8.

Golden, Randy, ⇒The Battle of Atlanta at North Georgia History

Kennedy, Frances H., ed., The Civil War Battlefield Guide, 2nd ed., Houghton Mifflin Co., 1998, ISBN 0-395-74012-6.

National Park Service battle description










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