ギリシア独立戦争を経てギリシア王国が成立すると、1834年にアテネはこの新生独立国の首都に選ばれている(なお近代ギリシア初の首都はナフプリオとされる)。アテネが同国の首都に選ばれたのは、主として歴史的栄光と国民感情を鑑みたものであり、この当時のアテネはアクロポリスの裾野を取り巻く小規模な町に過ぎなかった。初代国王オソン1世は建築家クレアンティス(en)とシャウベルト(en)の両人に命じて一国の首都にふさわしい都市計画をデザインさせている。
ギリシア初の近代都市は、アクロポリス、ケラメイコスの古代墓地、国王の新宮殿(現・国会議事堂)を頂点とする三角形としてデザインされ、古代から現在までの連続性を強調するものとなっている。この時代の国際標準であった新古典主義はまさに古代アテネをはじめとする古典古代に範をとるものだが、この新古典主義に基づき各国の建築家が主要公共施設の設計に腕を揮った。なお、新古典主義は西欧ではほどなく衰えるが、ギリシアでは「古代ギリシアの復興」という理念から1920年代まで新古典主義による建築が続いた[24]。1896年には近代オリンピックの第1回大会がアテネで開催されている。1920年代の希土戦争の際にはアナトリア半島から追い立てられた大量のギリシア難民がアテネになだれこみ人口がふくれあがった。もっとも、人口増大のピークは第2次大戦後の1950年代から1960年代にかけてであり、この時期に市域は拡大を続けた。
1980年代には、工場からの排ガス、かつてなく増えた自動車、人口過密による利用可能な空間の減少から、アテネは非常に深刻な課題に直面することとなった。1990年代の市当局による汚染対策事業とインフラの抜本的改善(自動車道(en)の建設・地下鉄の拡充・国際空港の新設)によって、汚染はかなり軽減されアテネは従来に比べずっと機能的な都市に生まれ変わった。2004年にはふたたび夏季オリンピックが開催される。2010年代初頭以降ギリシアは経済的な困難に見舞われており、その対策が今後の課題となっている。アテネ市を対象とするものとしては、アテネ近郊の経済特区設定[25] や、アテネメトロの路線拡張などのインフラ整備[26] が経済対策として検討されている。 アクロポリスに建つパルテノン神殿
略年表
前14世紀初頭 - このころにはミケーネ文明の主要都市となっていた。
前12世紀 - ミケーネ文明を含むエーゲ文明が滅亡。アテネも経済的に衰退する。
前9世紀 - 通商により栄える。
前6世紀前半 - 経済格差の拡大など従来の社会システムの行き詰まりからソロンによる改革が行われる。
前561年 - 貧民の支持を得て台頭したペイシストラトスが僭主として君臨する。
前510年 - ペイシストラトスの子で僭主のヒッピアスが追放される。
前508年 - クレイステネスにより民主政が導入される。
前498年 - イオニアの諸都市とともにペルシアの支配に抵抗するが敗れる(イオニアの反乱)。
前490年 - マラトンにおいてアテネを主力とするギリシア重装歩兵がペルシアを敗る(マラトンの戦い)。
前480年 - サラミス島近海においてテミストクレス率いるギリシア艦隊がペルシア艦隊を撃破(サラミスの海戦)。
前479年 - プラタイアにおいてギリシアがペルシアに圧勝(プラタイアの戦い)。ペルシア勢力がギリシアから一掃される。
前477年 - ペルシア再侵攻に備えて、アテネを盟主とする軍事同盟(デロス同盟)が結ばれる。
前5世紀半ば - このころ指導者ペリクレスのもとで全盛期を迎えるも、デロス同盟の私物化によりギリシア世界の緊張が高まる。
前431年 - スパルタを盟主とするペロポネソス同盟がアテネの覇権を危ぶんで宣戦、ペロポネソス戦争が勃発する。
前5世紀前半 - このころからいわゆる衆愚政治に陥る。
前404年 - アテネの降伏でペロポネソス戦争が終結。アテネはデロス同盟の盟主としての地位を失う。
前338年 - 北方に興ったマケドニア王国にカイロネイアで敗れる(カイロネイアの戦い)。戦後、マケドニアを盟主とするコリントス同盟に加わることとなり独立を失う。
前168年 - ローマがマケドニア王国を滅ぼす。