アテネ
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アテネの都市的地域(大アテネや大ピラエウス)は市域を超えて広がっており、人口は2011年現在3,074,160人に達し[12]、都市的地域の面積は412 km2 (159 sq mi)[11] である。ユーロスタットによれば大都市圏地域(Larger Urban Zones,LUZ) (en) の人口は欧州連合域内では7番目に大きい。

古典ギリシアの文化的遺産は今でもはっきりとしており、多くの古代遺跡や芸術作品が象徴している。もっとも有名で代表的なものにはパルテノン神殿があり初期の西洋文明の鍵となるランドマークと見なされる場合もある。アテネにはローマ帝国支配下のギリシャ東ローマ帝国の遺跡もあり同様に少数のオスマン帝国の遺跡も残されているなど、何世紀にもわたる長い歴史を投影するモニュメントとなっている。アテネには2つのユネスコの世界遺産がありアテナイのアクロポリスと中世のダフニ修道院がそうである。現代のランドマークはギリシアが1833年に独立国となりアテネが首都になった以降に建設された国会議事堂や「三部作」(Trilogy)と呼ばれるギリシア国立図書館(英語版)、アテネ大学、アテネアカデミー(英語版)が含まれる。アテネは、最初の近代オリンピックであるアテネオリンピックと、その108年後に開催されたアテネオリンピック (2004年)の2度のオリンピックの舞台である[13]。アテネにはアテネ国立考古学博物館があり、世界最大の古代ギリシアの遺品の収蔵を特徴とし新しい2008年に完成したアクロポリス博物館もある。ギリシャ正教会の首長であるアテネ大主教が所在し、精神的な中心地でもある(ギリシャ正教会は正教会に属し、クレタ島を除くギリシャ一国を管轄する)。正教会の定めるアテネの守護聖人は、ディオニシオス・オ・アレオパギティス、イェロテオス、フィロセイ。1985年には欧州文化首都に選ばれた。
名称アテネの守護神であるアテナ

古代ギリシア語では、アテネ市は ?θ?ναι アテーナイ(Ath?nai、[a.t????.nai?])と呼ばれていた。このアテーナイは複数形であり、単数形の ?θ?νη アテーネー(Ath?n?)はホメロスの詩文など古代ギリシア語以前(en)にみることができるが[14]、のちに Θ?βαι テーバイや Μυκ?ναι ミュケーナイ同様複数形に変わった。アテネの語源はおそらくギリシア語でも印欧語系でさえもなく、この都市と常に結びついている女神アテナの語源がそうであるように[注釈 1]アッティカ地方にギリシア語が入り込む以前に存在した言語(en)に遡ると考えられている[15]。中世にはこの都市の名前はふたたび単数形の ?θ?να となり、以来一貫してこの名が用いられてきたが、書き言葉では古体が尊ばれたため、1970年代にカサレヴサ(文語)の使用が停止されるまで同市の公式名称は ?θ?ναι アシネ([a?θine])であった。カサレヴサ廃止以降は ?θ?να アシナとなり現在に至る。

また、かつて19世紀には上記とは異なる語源も唱えられた。ドイツの古典学者 Lobeck は「花」を意味する ?θο? (athos)ないし ?νθο? (anthos)をアテネの語源として提唱し、アテネの名を「花ざかりの都」と解したほか、同じくドイツの文献学者 Doderlein は動詞 θ?ω (tha?)「吸う」の語幹 θη- (th?-)を語源と考え、肥沃な土壌から滋養を汲み取ることに関連付けている[16]

アテネ市がアテネと呼ばれるようになった経緯を語る起源神話は古代のアテネ市民に広く知られており、パルテノン神殿の西面のペディメント彫刻のモチーフともなっている。智慧の女神アテナと海神ポセイドンはさまざまな諍いや争いを重ねるが、その1つがこの都市の守護神の座をめぐるものであった。人々を従わせようとポセイドンは三叉の槍(海軍力の象徴)で地を突き海水を湧き出させたが、アテナがオリーヴの木(平和と繁栄の象徴)を生い立たせると、国王ケクロプス以下の住民はオリーヴの木を択び、アテナの名を都市の名として押し戴いた。

アテネ市はギリシア語で τ? κλειν?ν ?στυ 「栄光の都」と呼ばれることがあるほか、単に η πρωτε?ουσα 「首都」とも呼ばれる。文学的表現としては、古代ギリシアの詩人ピンダロスが ?οστ?φανοι ?θ?ναι と呼んで以来、「紫冠の都」(en:City of the Violet Crown)と呼び習わされてきた。
歴史詳細は「アテネの歴史(英語版)」および「アテナイ」を参照 アテネのアクロポリス古代から近代までの変遷が収められた風景。アクロポリスの神殿と手前の円柱は古代を、丸屋根の教会は中世を、新古典様式の家々は近代を代表する。

現在のところ、アテネにおける最古の人類の痕跡は同市を象徴するアクロポリスの下部にあいた片岩地質(Athens Schist)の洞窟内から発見されたもので、時期は前6000年から前11000年と推定されている[17]。アテネでは少なくとも7000年間継続して定住が行われている[18][19]。前1400年にはこの地の集落はミケーネ文明における中心的地域の1つとなっており、アクロポリスはミケーネ市にとっての主要な砦であった。この砦の遺構は特徴的なキュクロプス式(英語版)の城壁に今でもうかがうことができる[20]。ミケーネやピュロスといったミケーネ文明の他の中心地と異なり、アテネが前1200年ごろ滅亡を被ったかどうかはわかっていない。東地中海全域を襲ったこの危機は、ミケーネ文明に関してはドリス人の侵略にその咎が帰せられることが多いが、アテネ人はドリス的要素の混ざらない純粋なイオニア人であることにこだわりつづけた。いずれにせよアテネも他の多くの集落同様に、以後150年ほど経済的停滞に沈んでいる。

鉄器時代に入ると、ケラメイコスの墓地をはじめとして多人数を収める墓地が少なからず設けられており、前900年以降アテネがギリシアにおける交易と繁栄の先進的中心地の1つとなっていたことがわかる[21]。アテネの先進的地位は、ギリシア世界の中心に位置したこと、アクロポリスの砦を擁し防衛に優れたこと、海上交通の便が良いことから享受できたと考えられる。特に第3の点はテバイスパルタといった内陸の競合相手に対し天与の利点となった。

前6世紀にはギリシア世界に広まった不穏な社会情勢からソロンの改革に至り、この改革は結果的に前508年のクレイステネスによる民主政の導入を招来した。この時期以降アテネは大艦隊を保有する一大海軍力となり、ペルシアの支配に抗するイオニア諸都市を支援することとなる。その後に勃発したペルシアとの戦争では、アテネはスパルタとともにギリシア諸都市の連合を率いて戦い、ついにはペルシアを撃退している(前490年のマラトンの戦い・前480年のサラミス海戦の勝利が決定的となった)。とはいえ、最終的に勝利こそしたものの、レオニダス1世麾下のスパルタ兵が英雄的に敗北した際と[22]ボイオティアアッティカがともにペルシアの手に落ちた際との都合2度、アテネはペルシアによる占領と略奪を受けることを余儀なくされている。ペロポネソス戦争勃発直前のデロス同盟(前431年)。

ペルシア戦争後の数十年は、民主政アテネの黄金時代(en)として知られる。前5世紀のこの時代、アテネは古代ギリシア世界の先頭を走り、さまざまな文化的達成は以後の西洋文明の礎となった。アイスキュロスソポクレスエウリピデスといった劇作家、歴史家のヘロドトストゥキディデス、医師ヒポクラテス、哲学者ソクラテスがこの時期のアテネで活躍している。優れた指導者であったペリクレスは諸芸の振興と民主主義の庇護をこととしたが、この指導者のもとでアテネは野心的計画に乗り出し、パルテノン神殿をはじめとするアクロポリスの壮観と、デロス同盟を通じた帝国の樹立を見ることとなった。デロス同盟はもともとはペルシアへの抵抗を継続するギリシアの諸都市が相互に結んだ同盟関係というべきものであったが、ほどなくアテネの帝国的野望のための手段となった。このアテネの傲岸がもたらした緊張はペロポネソス戦争(前431年 - 前404年)の開戦を招き、宿敵スパルタに敗北したアテネはギリシアにおける覇権を失った。

前4世紀半ばには北方のギリシャ系国家であるマケドニア王国がアテネ周辺へも影響力を及ぼしはじめ、前338年にはピリッポス2世率いるマケドニア軍がアテネとテバイを中核とする都市同盟軍をカイロネイアの戦いで打ち破っている。


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