アテナイ
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紀元前357年に起きた同盟市戦争(英語版)により同盟市に対して大幅な譲歩を強いられ、紀元前338年カイロネイアの戦いマケドニアフィリッポス2世に降伏してからはデモステネスの抵抗も空しく政治的独立性を失いアレクサンドロス大王とそれに続くディアドコイの帝国に編入された。アレクサンドロス大王の死後反乱(ラミア戦争)を起こしたものの、短期間で鎮圧された。ローマの支配下となった後は文化都市として栄えたが、域内完結型のローマ経済圏において生産力の乏しさから徐々に衰退し、6世紀頃までには東ローマ帝国の一地方都市となった。
アテナイの政治

アテナイ成立の当初は王政だったとされるが、その実態は明らかではない。その後、王政から貴族政(寡頭政)へと移行していった。しかし、商工業の発展にともなって貧富の差の拡大が進むと、一部の富裕化した市民層は、自ら武装して重装歩兵部隊を編成することが可能になった。こうして、ポリスの防衛や略奪、侵略などに市民が活躍するようになると、彼らは政治的権利の拡大を要求し始め、相次ぐ戦争を通じて市民と貴族の区別を超えた権益共同体としてのアテナイが形成された。
王政・貴族政

紀元前8世紀頃、アテナイ中心部へ集住(シュノイキスモス)が行われ、これがアテナイの出発点となったと考えるのが一般的である。伝承によれば王政が打倒され、まもなく貴族制(寡頭制)へと移行したとされる。彼らはアレオパゴスから政治を支配した。当時、古代ギリシア人は各地に植民活動を行っており、植民市との間で次第に交易が行われるようになっていた。こうした中で商業の発展が促され、一部の市民の富裕化を招く一方、貧困層の困窮も深刻化していた。史料上最初の政治的事件は、前630年頃にキュロンが非合法的に権力掌握を図ったというものである。しかし失敗して殺害され、僭主の地位を手にすることはなかった。紀元前624年頃にドラコンによって慣習法が成文化されたとされる。これにより貴族による法知識の独占が崩された。
軍事民主制の歩みファランクス

貧富の差の拡大は、アテナイ社会の深刻な問題となっていた。「六分の一(ヘクテモロイ)」と称される奴隷や農奴の上に位置した市民貧困層は債務奴隷となり他ポリスに売却されることもあったため、こうした事態がアテナイの弱体化につながる懸念もあった。一方、アテナイ成立の早期より、市民権を持つ富裕な市民は自弁して重装歩兵となりポリス防衛や略奪、敵対部族の撃滅などに活躍して発言力を強めており、身分により指導部が下した政治決定への意思表明機会に区別があることは、当時の兵役を請負う市民から不平不満が高まっていた。こうした状況を受け、紀元前594年にアルコンに就任したソロンは、市民の債務を帳消しにすると共に市民の債務奴隷化を禁止させ、アテナイ内に於けるアテナイ市民(もちろん奴隷や農奴に指導部が下した政治判断への投票参加は認められず、奴隷は人格も認められない)の地位を守ると共に、財産額によって市民を4等級に分け、その等級に応じて指導部が下した政治決定に賛否を表明する投票への参加を認めた。これにより家柄でなく財産の多寡が政治参加の度合いを決める事となった。

ところが、ソロンの改革を巡っては、古くからの特権を保持する貴族と改革支持派が対立し、それぞれの居住区から前者は平野党(Pediaei)、後者は海岸党(Paraloi)と呼ばれた。さらに後者からは急進改革派である高地党(Hyperakrioi、後に山地党(Diakrioi)と改名)が分離して、ソロンが引退すると三派が激しく争った。紀元前561年に権力を掌握した僭主ペイシストラトスは、山地党の支持を受けて、中小農民の保護育成につとめ貴族に打撃を与えた。僭主を倒したクレイステネスは、紀元前508年に10部族制を創設し市民を再編して五百人評議会の設置とオストラキスモス(陶片追放)を採用した。
軍事民主制の発展と確立

ペルシア戦争に勝利したアテナイは、サラミスの海戦などで三段櫂船の漕手として活躍した下層市民の発言権が強まり、ペリクレス時代には「五百人評議会(有力者層から成る)」の方針を討議する「民会」(参照:プニュクス)も設置された。一部の上級職(将軍職)を除いた全ての公職が市民に解放され、出自や能力に関係なく立候補が可能になった。また、経済的に任に堪えない市民(市民のみが兵役の義務を負う)に対しては「公職手当」が支給された。後世、ソクラテスプラトンは「市民を怠け者にした」として、これを非難する。

公職は、毎年改選される将軍職を除いて、その地位を希望する市民に対して籤引きで決定された。籤引きは神による選択の現れとも信じられていて、アテナイ人はそれが純粋に民主的であると考えていた。これに対してソクラテスやアリストテレスは専門的知識が必要な決定ですらそれを持たない市民で決められてしまうと批判するが、こうした批判は正しいと言わざるを得ない、なぜなら後にソクラテスは専門的な法律知識を有する者が参加していない籤引きで選ばれた裁判官の私感によって、死刑判決が下されたからである。
アテナイの経済

アッティカ半島の土壌はオリーブと@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ブドウ、すなわちオリーブ油ワイン[要出典]の生産に適していた。穀物は魚介類とあわせて食生活の中心となったが、アテナイの穀物資源は不足し、食糧供給のための穀物輸入が常に問題とされた。
初期アテナイ経済

初期のアテナイはギリシアでも後進地域であり、土地はやせ何の特産物も工芸品もない部族集落であった。暗黒時代に破壊を免れたのはアテナイのあまりの貧しさに侵略者であるドーリス人が攻撃の価値を見出せなかったから、という説もある。また、当然に独自の通貨を持つ技術も無く、アイギナの通貨・経済圏の下に組み込まれていた。

アテナイが経済的に注目されることになったのは、ソロンの改革以後である。ソロンはアテナイの産業不振の原因をアテナイ市民が商業や工芸の仕事を奴隷の仕事として卑しんでいるからだと考えて、故国を追われて亡命先を求める職人や貿易商人をアテナイに招聘できるように市民権獲得条件を緩和した。また、当時ギリシア最大の商業都市であったアイギナと商圏が重なる事から、アイギナの通貨圏から離脱してコリントス通貨圏に移った。これにより、東方から招き入れた職人達によって陶芸技術がアテナイに持ち込まれ、アテナイが陶器の産地になるとともに、アイギナ商人が及ばないコリントス経済圏に市場を広げる結果となった。

また、続くペイシストラトス時代にはマケドニアから来た鉱山技師によってラウリウム銀山の本格採掘が始まった。銀が採れないとされてきたギリシア地域で唯一本格的銀山を保有するアテナイは、これにより独自の通貨(ドラクマ銀貨)を生産する。そして食料自給率が推定で約3割から5割と低いアテナイにとって貴重な食料や船舶の材料である木材の輸入が可能となり、ギリシア世界の経済で優越した立場に立つ。銀山で働いていたのは奴隷達で、彼らの監督者はアテナイの財政を左右する要職として一流の市民が選ばれた。さらにペルシア戦争最中の紀元前483年にラウリウム近くのマロネイアからも大規模な銀山が発見されると、当初は全市民に毎月産銀を分配する計画であったが、当時の指導者・テミストクレスの提案によって、その産銀を海軍予算に充てる事が了承された。アテナイがペルシアの侵攻を徒労に終わらせただけの海軍力を得たのも銀山のおかげであり、それは食料や木材の輸入量確保にとっても重要であった。
ギリシア世界での支配地域拡張

ペルシア戦争勝利後のアテナイはデロス同盟の支配者として各地へ侵略を繰り返し支配地域を拡大した。紀元前433年にケルキュラコルキュラ)を巡って対立したかつての盟友・コリントスを破り、2年後にはかつてのライバルアイギナをデロス同盟の頚木へ従えた。等々、アテナイはギリシア最強の軍事都市に上り詰める一方、デロス同盟参加国から徴収する年賦金を自国財政に全額流用、アイギアを始めとする各国の通貨鋳造権を取り上げアテナイ通貨の使用を強制した。アテナイのテトラドラクマ銀貨 発行時期は紀元前454-415年。通称「ふくろう銀貨」と呼ばれるもの。アテナイはデロス同盟参加国から徴収した銀を用いて莫大な量の銀貨を発行した。

アテナイの市場には、ポリス内部の地域市場であるアゴラと対外用の市場であるエンポリウムが存在した。アゴラにはカペーロスという小売人が居住し、中央集権制度にかわって食料の再配分を行なうための制度として食品が売られた。エンポリウムにはエンポロスという対外交易者が居住し、ペイライエウスで取り引きを行なった。ペリクレスは自ら積極的にアゴラで売買を行ない、アテナイは商業的なアゴラを推進した[2]

台頭が遅かったため、隷属市の急拡大とは対照的に植民市の入植競争では他の都市に乗り遅れた。遅ればせながら植民市も創設して「クレールーキア(klerouchia)」と呼ばれるアテナイ市民権の保証と引き換えに従属義務を負う契約を結んだ都市の建設に乗り出した。
ペロポネソス戦争とアテナイ経済圏の崩壊

陸軍大国スパルタと裕福なコリントスを中心とするペロポネソス同盟勢を敵に回したアテナイの指導者ペリクレスは籠城による長期戦を計画する。だが、籠城による人口過密からくる諸問題(都市の許容量を超えた人口の爆発的増加と治安の悪化、そして何より衛生環境の悪化による疫病の蔓延)が襲い始めた。ペリクレスは、アテナイの支配地域の農地は肥沃ではなく、食料自給率も低いので敵に農地を荒らされても食料は輸入で補えばいいという考えであったが、商工業を卑しむ傾向があったアテナイ市民には農園経営者が多く、またスパルタ軍のアテナイ領の略奪により、ペリクレスの生前より籠城の長期化による農地の荒廃に不満を抱くものが続出した。


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